お疲れ様でした
前に居た団の元音楽監督、A先生が亡くなられた。
元いた団の団長から電話をもらったのは、関西から帰ってきた翌日だった。
脳梗塞で倒れられたものの復活し、元気にしておられると聞いていたのだが、癌が先生の身体を蝕んでいたらしい。
私には心の底から尊敬している人が二人いるのだが、その内の一人がA先生である。
元々は日本を代表するトランペット奏者の一人であった。関西の大きなオーケストラで長年主席奏者を勤められた後、音楽大学で教鞭をとり、多くの奏者を育てた。
大学を辞められた後も、あちこちのアマチュアオーケストラや吹奏楽団の音楽監督として引っ張りだこであった。
初めて先生に出会った時の事は、今でも鮮明に覚えている。
見学の為、緊張気味に座っていた私に、
「長く演っておられるんですか?」
と丁寧な言葉遣いで尋ねて下さった。
先生の経歴は楽団のHPで知っていたから、こんな凄い人が一アマチュア愛好家に、丁重な口のきき方をされる事が意外で、強く印象に残った。
入団してからは、演奏をまとめる手腕に舌を巻いた。
A先生はまず曲の大枠をざっくりとらえさせ、みんなが曲に慣れてきてから、曲想を中心に細かい所を仕上げていくやり方だった。
このやり方だと、合奏を止めて一部分のみの練習をするのではないので、みんな飽きない。一部分のみの繰り返し練習は本当は必要なのだが、飽きる。休みになっているパートは手持ち無沙汰に待っていることになるので、時間も勿体ない。
A先生は本番までに効率的に仕上げる方法を、いつも模索し計算しておられた。口に出して仰った訳ではないが、いつも本番でああそうだったんだ、と気付かされた。
一方でA先生はとても『お茶目』であった。
打ち上げの時、私がテーブルにお菓子を並べていると、ふらっとA先生が部屋に入って来られた。テーブルのお菓子をじっとご覧になっているので、
「どれか召し上がりますか?」
と恐る恐る聞いたら、
「先にもうてもええのん?」
と仰って、私を見てニヤっとされた。
音楽監督にいけません、なんて言うはずがない。どうぞ、というと、
「じゃあワシこれとこれ」
と嬉しそうに手にされたのは、『雪の宿』と『キャラメルコーン』であった。
「よう覚えとき。『雪の宿』と『キャラメルコーン』が嫌いな男はこの世におらん」
ほな、とお菓子を手に指揮者控室に去っていく先生の後ろ姿を見送って、思わずクスリと笑いが漏れた。
音楽監督をつとめられているオーケストラのコンサートに伺った時の事も印象的だった。
その時はアメリカから著名なトランペット奏者をゲストに迎え、ハイドンのトランペット協奏曲が演奏されたのだが、その奏者は緊張していたのか、始めのうち少し音が固かった。
一楽章が終わった時、指揮をしていたA先生はやおら指揮台から降りて、その奏者の背後にまわって肩をもんだ。
客席から笑いが起こった。奏者は笑って先生を見た。先生は親指を立てて、奏者の肩をポンポンと軽く叩いて指揮台に戻った。
二楽章の演奏はのびやかで素晴らしかった。
こうやって先生の思い出を書いていると、いくらでも出てくる。いつも誰にでも、丁寧に受け応えする方だった。音楽以外の事でも、相談には親身になってこたえて下さった。
人に接する時の力の抜き加減というか、距離の取り方というか、が絶妙で、力まず、力ませず、でも見放さず、そっと寄り添って下さった。
色々な思い出が多すぎて、書きながら涙がこぼれる。
これからも見守っていて下さい。
お疲れ様でした。そしてありがとうございました。