「しっかり」した子
今日は関西にいた時に所属していた楽団が、久しぶりにコンサートを開く。コロナのせいで、ここ数年何度か計画が中止になり、みんな目標を見失いそうになりながらやっと開催に漕ぎつけた。きっと嬉しさもひとしおだと思う。
地元には古くからのファンも多いから、きっと沢山のお客様が来てくださっている筈だ。
私はお祝いのお花を贈って、小さなエールを送った気になっている。
この楽団では沢山の友人と呼べる人に出会えたけれど、中に一人、とてもしっかりしたAさんという女性がいた。
正しいことは絶対正しい、間違っていることは絶対間違っている、と誰に対してもはっきりきっぱり言える子だった。
ある時合奏中に、金管の若い女の子があまり得意でないパッセージを何度もやり直しさせられて、四苦八苦していたことがあった。と、それを見ていた、実力的にはその子より少し上のある団員が、したり顔で『指導』を始めた。すると指導された女の子は泣き出してしまった。
その女の子は自宅ではなかなか練習する時間が取れないし、自分の楽器も持っていないが、いつも合奏前に早くから来て一人で練習していたし、合奏が終わっても閉館ギリギリまで残って、熱心に出来ないところをさらっていた。みんなそのことを知っていて暖かく見守っていたのだが、指導した団員はそうは思っていなかったようだった。その言葉はきつく、冷たかった。
女の子は情けなかったのかもしれないし、恥ずかしかったのかもしれない。可哀想に、とは思うが合奏中で、身動きが取れない。私語は禁止である。
場はなんとなくうんざりした雰囲気になった。
その時、憤然と立ち上がったのがAさんであった。Aさんは彼に向かって、
「自分!そんな言い方せんでもいいやろ!おんなじこと言うんでも、言い方ってのがあるやろ!謝りいや!あんまりやで!」
と言ったのである。同意はできるが、あまりの激しさにみんな息をのんでシンとなった。
先生まであっけにとられていたが、
「上手になるために、一生懸命努力するのは素晴らしいことなんだよ。今すぐできなくてもいい。できるようになるために、それぞれが頑張ればいい。僕はそう思っているよ」
と彼の批判でもなく、彼女の擁護でもないように上手に優しく言ってくださって、その場は収まった。
みんなほっとした。
そんな男前な彼女だが、1年ほど前に大きな病気を経験した。ご家族のことでも悩みがあったようで、私が関東に来てから泣きながら電話をくれたことがあった。
話を聞いて、なんでも自分一人でやらなきゃ、とずっと気を張り詰めてきたんだな、と思った。家族や周囲の期待に応えることだけを支えに、裏返せばそれによってえられる承認を心の拠り所にしてきた彼女は、病気によって「自分は人にお世話になり、迷惑をかける人間になってしまった」と自分を責め、「家族に迷惑はかけたくない」と悩み、でも他の誰も頼れないと思い込み、孤独と不安で心がめちゃくちゃになってしまったようだった。
私も子供の頃からことある毎に「しっかりしているね」と言われてきたし、無意識のうちにそう言われようとしてきた。それはひとえに「承認」が得たいための虚勢で、本当に「しっかりしていた」訳ではなかったのだと思う。
「しっかりした」自分でなければ認められない、という焦りもあった。
「しっかりしている」というのは、周りの人間が「あいつには任せて大丈夫」という暗黙の承認を与えることかと思うが、実はこの承認は「あいつは放っておいても大丈夫」という、側面も持っている。
つまり「しっかりすること」は「周囲から放置されること」でもある。しかし、「しっかりしているね」と言われる人の中には、その放置を実は恐れている、昔の私のような人間が少なからず存在する。
Aさんも紛れもなくその一人である。
私はAさんほど男前ではないけど、過去の自分と重なる部分があり、じっくり話を聞くことができた。
その上で、もっと甘えていいんだよ、甘えることは悪いことじゃない、そんなに強くならなきゃ、って思わなくても良いんだよ、今日は電話くれて嬉しかったよ、ありがとう、と言ったら彼女は”勇気を出して”電話してよかった、と号泣した。
ぽっきり折れた彼女の姿を初めて見て、変な話だがちょっと安心した。病気は喜ばしくないことだけど、この子も誰かを頼ろうとやっと思えたんだな、と思ったからだ。
その後彼女は大変な手術を乗り越え、家族とは一定の距離を取りつつも自分の意思をわかってもらえるところまで漕ぎつけ、初めて周囲にいっぱい甘えて新しい一歩を踏み出した。
それらを全部自分でやった彼女に、心の中で賞賛の拍手を送った。
今朝彼女から、
「今日はステージ楽しんできますね!」
という元気なメッセージをもらって、思わず一人微笑んでしまった。
「頑張ります」じゃなく、「楽しんできます」と言えるようになったんだな、と思うと嬉しかった。
また一緒に吹く機会があると良いな、と思っている。