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首ったけお父さん

若い頃の友人にMという子がいた。お互い苗字を呼び捨てにする仲だった。教科書の監修をするような立派な教育者であるお父さんと、幼稚園の園長先生のお母さんを両親に持つ、朗らかであっけらかんとした子だった。
個性的でユーモラスな家族だったが、中でもこのお父さんがとても面白い人だった。

飲みに行った帰り終電を逃し、この子の家に泊めてもらったことがある。田舎の大きな一戸建てだった。
玄関を入るとぎょっとした。脱衣籠のようなバスケットが置いてあり、そこからダリの絵の時計みたいに、パンティストッキングが垂れ下がっている。驚いている私をものともせず、Mはその籠に自分のパンティストッキングを脱いで無造作に放り込んだ。
「どうぞー」
と言いながらずんずん奥に進んで行く。
各家庭にはその家庭なりのルールがある。例えそれが他人の目には奇異に映ったとしても、この家では当たり前の現象なのだな、と自分を納得させ、垂れ下がったパンストを横目に、私はおっかなびっくり彼女について奥に入っていった。

彼女の部屋に入ると再び驚いた。足の踏み場がない。広い部屋には所狭しとぬいぐるみやクッションが散乱し、読みさしのマンガや開けかけのお菓子の袋などがその上に無造作に置かれていた。ウチの妹も相当整頓が出来ない人間だが、ここまで酷くはなかった。
あまりの散らかりように言葉が出ず、入り口で突っ立っている私を遠慮していると思ったのか、ざーっと色んな物をよけて地面を出すと、
「どうぞ、入って」
と彼女は言って、にっこりした。
「いや、入る場所ないし」
と思わず本音を漏らすと彼女は部屋を見渡しながら、
「うーん、お父さん掃除まだしてくれてないねんなあ」
と唇を尖らせて溜息をついたので、もっとびっくりしてしまった。

「あんた、お父さんに部屋の掃除させてんの?!」
と聞くと、
「うん。お父さん、めっちゃ優しいねん」
と平気な顔をして言う。いや、優しいと違って甘いやろ、と思ったが、彼女は一向に悪びれる様子もなく、
「ウチな、洗濯も掃除もお父さんがすんねん。それがお母さんと結婚する時の条件やってんて」
と言って笑った。
帰宅して夕飯を済ませると、肘枕で横になってテレビを観ている自分の父と私が比べてしまったのは言うまでもない。
世の父親とはそういうものだと思い込んでいたから新鮮過ぎた。

Mの両親はお見合い結婚だった。お母さんと会うなり、お父さんはその美貌にハートを撃ち抜かれ、即プロポーズしたらしい。
が、お母さんはお父さんを気に入らなかった。世の中上手く行かないものだ。プロポーズを即袖にした。
するとお父さんは
「あなたの望むことは何でもする。あなたは結婚しても家事も何にもしなくて良い。欲しいものは何でもあげる。僕が約束を破ったら、即離婚して良い。お願いだから僕と結婚して下さい」
と毎日熱心にお母さんの家に出かけて頭を下げたそうだ。
あまりの熱意にお母さんは折れ、目出度く結婚する運びになったのである。

お父さんは忠実に自分の言葉を実行した。掃除、洗濯、炊事、を全て請け負った。子供が生まれればオムツも替え、離乳食も食べさせ、休みの日には散歩にも連れて行った。熱を出せば休みを取って病院にも連れて行った。
自分もフルタイムの勤務をこなしながら、である。掃除は週一回、洗濯は何日分かまとめて、炊事は冷凍ものや総菜もありだ、とは言っていたが、それにしても大変だったと思う。
今でこそ家事をするのが当たり前のお父さんの姿だが、今から約半世紀前のことである。かなり珍しかったと思う。現にこのお父さんのことをウチの父に話したら、
「オレは真似よーせん」
と呆れていたから、当時の大勢の男性の考え方とは遠くかけ離れていたに違いない。

お父さんはお母さんの産んでくれた二人の娘たちを物凄く可愛がった。反抗しようと思ったことが一度もない、とMは言っていたが、そらそうやろ、と思える溺愛っぷりだった。
だが、ただ単に甘々で溺愛していた訳ではなかった。
Mが浮気癖のある彼氏と付き合っていた時、卒業したら結婚しても良いかな、と思っている、とお父さんに話すと、
「Eちゃん(Mの下の名前)、その子と結婚して本当に幸せになれんの?Eちゃんがそれで良いなら良いけど、お父さんはそうじゃないような気がする。お父さん、Eちゃんにはずっと笑っていて欲しいなあ」
としみじみ言われ、はっとしたそうだ。
そういう会話は普通母親とするものだと思うが、彼女にとってお父さんはそういう存在なのだなあと感心した。

ゴミだらけの彼女の部屋で翌朝目覚めると、
「ご飯出来てるで~」
とMが呼びに来た。台所に行くと、味噌汁とエビチリがテーブルに用意されていた。
「お友達来てはるんやったら、ちゃんと食べてもらい」
お父さんが、出勤前にわざわざ用意して下さったものだった。
白菜と麩の味噌汁は、二日酔いの私にはとても有り難く美味しかった。

「女だから家事しなきゃ」とか、「お父さんは厳しく」とかの縛りのない家に育ったMは、無事に優しい伴侶を得て、可愛い一人娘のお母さんになっている。流石に家事はしていると言っていた。
家族の役割なんて、その家毎に違うんだなあ、と痛感させられた思い出である。