男泣き
若い頃お世話になった事務方の3人目の課長は、大変きちんとした人だった。私達営業の人間がいい加減な伝票を寄越したり、事務方の人間をこき使うような事をすると物凄く怒り、営業の課長に猛烈に抗議した。
じゃあ自分の所の課員に甘いのか、といったらそれは違っていて、2回同じミスをすると額に青筋を立てて怒っていたし、違算が続くとイライラとして機嫌が悪かった。
原因が課員の初歩的なミスだったりしたら、大きな声で叱り飛ばしていた。新入社員でもお構いなしだったので、新人の配属される5月頃は皆ビクビクしていた。
しかし仕事を離れると気さくでシャイで、お酒の好きな一人のおじさんだった。ネチネチと怒るとか、誰彼と悪口を言う事もなく、カラリとしていた。
それでも事務方の若い女子社員は殆どが彼を怖がり、遠巻きに見ているような感じがあった。
私はと言えば、彼の叱責に理不尽とか底意地の悪さを全く感じなかったし、やってはいけない事をしたときにしっかり注意してくれるので、なんとも思わず平気で喋っていた。仕事熱心で気持ちの良い人だと思っていた。
彼ととても仲の良い事務方の主任がいた。Aさんという男性だった。
二人は釣りが趣味で、よく一緒に出かけていた。
Aさんが遅い結婚をした時も、子供が産まれた時も、課長はまるで自分の身内の事のように喜んでいた。
ところがある日、事件が起こった。ある課員がとんでもない不正を働いたのだ。
店は大混乱になってしまった。本店からも連日のように人が来て、伝票を洗いざらい調べていた。当該課員は連日、本店で厳しく聴取されていたらしい。
その課員はなんとAさんだった。
事務方のトップである課長は長い間、毎日遅くまで事件の事後処理に追われていた。口数も少なく、とても憂鬱そうで、見るからに疲れ果てていた。
ある日の帰り際に事務方の部屋をヒョイと覗くと誰もおらず、ただ一人課長がボーッと天井を仰いでいた。とても疲れている様子だった。
「課長、お疲れ様です。お先失礼します」
そう声をかけると、課長は気怠そうに私に顔を向けて、
「なんでワシに一言相談してくれへんかったんやろ…なあ〇〇(私の名字)、ワシ悔しいわ。なんでや、なんでアイツあんなアホな事してしもたんや…」
と呟くように言った。
私は胸が詰まって何も言えなかった。
課長は涙を流していたのだ。
Aさんは懲戒免職になった。離婚し、親権を手放し、遠くにある実家に帰ったと風の噂で聞いた。不正の穴埋めはご両親がしたらしい。
事件から何ヶ月か経ったとき、課長の机の上に一枚の葉書が乗っていた。差出人の名前が見るともなしに私の目に入った。
Aさんだった。
私はドキリとした。
席に戻ってきた課長は、私の目を見ながら黙ってそれを引き出しにしまった。私も何事もなかったかのように、用事を済ませてその場を離れた。
お互い何も言わなかった。
私が退職するまで、結局課長とこの件について話す事はなかった。
あの葉書きには何が書いてあったのだろう。それを読んで課長はどう感じただろう。
私の結婚式に課長は祝電を下さった。
立派な祝電の台紙を手に取ったとき、あの時泣いていた課長を一瞬思い出した。
父親に対する感情のようなものが、一瞬私の心に浮かんだ。