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どうせなんとかなる

夫はなんでもすぐに悲観する人である。
たいして大袈裟に嘆かなくても良いように思われることでも、
「ああ、もうおしまいや」
といったようなセリフをよく口にしては、頭を抱えて渋面を作る。
実際に物事に直面してからこのセリフを吐くまでの所要時間は五分とないだろう。兎に角、めちゃんこ短い。
○○できなかったから、××もできない、なんてことだ、大変なことになってしまった、と嘆きつつ、ウロウロする。不機嫌になる。
多くの場合、小さな一つのきっかけから、自分で大きな『不幸』を勝手に想像してしまっている。しかしそう指摘しようものなら、とんでもない怒りを向けられてしまうので、ああ、いつものが始まったなあ、と思いつつそんな夫を静かに眺めている。

これは、『現実をそのままで受け止めていない』から起きる現象である。
例えば利き手の指を一本、骨折したとする。
夫の思考に従えば、
『なんてことだ。利き手なのに、これでは日常生活を送るのが大変になるではないか。この指を庇っていると、他の指まで痛くなるかもしれない。そんなことになったら、腕まで怠くなってしまうだろう。どうしてこんなひどい目にあってしまったのか。ああ、あの時こうすれば良かった』
というようなことが、脳内でグルグルすると考えられる。
現実は『利き手の指を一本折った事』である。
それを『なんてことだ、日常生活が大変になる』と捉えるか、『良かった、折れたのが一本だけで』と捉えるかは、個人の自由である。
どうも夫はいつもネガティブな方に振れやすい。

えらそうなことを言っているけれど、私も以前はこういう思考回路だった。
だから何か起こったらパニックになり、狼狽えていた。どうしよう、どうしよう、と探しても見つからない答えを自分の外側に求め、答えがないことに焦っていた。
目の前の『現実』をちゃんと見ていなかった。

『現実』は一つで、あとは自分の脳内で醸成されることである。
起こりうるかも知れない未来を予測するのは、自分の身を守る為には必要なことだろうが、あくまでも『起こりうる未来』であって、『必ず起こる未来』ではない。
そんな不確実な未来に振り回されて、今この時をちゃんと生きられないなんて、勿体なすぎる。
このことに気付いてから、私は『悲観』というものをすることが、ほぼ全くと言って良いほどなくなった。
『○○できないかも』『○○になってしまうかも』なんて、考えるだけ時間の無駄というものだ。心が緊張して、筋肉だって強張る。心だけでなく、身体にも良くない。

こういうことを言うと、殆どの人は
「在間さんってポジティブ思考なのね。羨ましいわあ」
と呆れたように言うか、
「凄い!素晴らしいね」
と言って、揶揄するように含み笑いをする。
この『ポジティブ思考』という言葉に、私はいつもひっかかりを覚える。
『ポジティブ』というのは『前向き』ということだと思うが、私の思考はこの時点では『前向き』というのとは違う。
『現実をそのまんま見ているだけ』であって、この段階では『前向き』な意味づけをしていない。

今目の前で起こっていることを、しっかりと見る。ただ見る。
意味付けはしない。

ネガティブなことを考えてしまうのは、そっちの方が脳が楽だから、である。
起こりうる最悪の状況を予想しておけば、実際にそうなった時に慌てずに済む、と思っている。『備えあれば憂いなし』とは言うけれど、どれだけ備えても憂いは消えない。『憂い』は自分の脳内に発生するもので、それを消すのは自分の考え方次第なのである。
『よし、これで大丈夫』としっかり思うことでしか、『憂い』は消せない。
悪い予測を延々とやっていると、いつまで経っても『備え』は完了しないのだ。

『かも知れない』未来は、どうせなら明るい方に考えた方が気が楽だ。
どう考えようと、自分の自由なのだから。
でも、明るい方に考えるのはどうやら殆どの人が苦手らしい。
予め悪い方に考えておいて、実際に良いことが起こると『ああ良かった、悪い方でなくて』とホッとする、という思考回路である。万が一、悪いことが起こってもそっちの方がショックが少ない、ということなのだろうが、実際はそうでもない。
なら、要らない心配はしない方が良い。
どうせ世の中、なんとかなるように出来ているのだから。

現実は一つ。
それをどう意味付けするかは自分次第。
夫もいつか分かってくれるだろう。








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在間 ミツル
山崎豊子さんが目標です。資料の購入や、取材の為の移動費に使わせて頂きます。