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真剣に向き合う

先日テレビを観ていたら、佐賀県鳥栖市の十九歳の男子大学生が両親を殺害した事件の判決がでた、というニュースをやっていた。
丁度、数日前に十五歳の男子高校生が父親を殺害した、というニュースが流れたばかりだったから、またか、と複雑な気持ちになった。

こういうニュースを目にした時、私はまず子供の気分を味わってしまう。『教育』『躾』という美しい言葉に名を借りた、最も身近な人間による人格蹂躙の日々を経験した人間には、やむを得ない凶行に至るまでの子供の心の動きが、痛いほど理解できるのである。
殺人は人として絶対に許されない罪だが、私は罪を犯した子供を一方的に批判する気にはなれない。本来なら、自分に誰よりも無条件の愛を注いでくれるはずの人間から、逃げ場のない厳しい呪縛を受けたら、誰だって悲しみと絶望で気が違いそうになるだろう。
経験した人間にしか分からない感情だと思う。

そして親の気持ちも思う。
『親も良かれと思ってしたこと』と裁判長の言葉にあったが、少し違和感を覚える。そういう親は、『そういう愛し方をされてきたから、それしか知らない』のである。本当に自らの丸ごとを無条件に受け容れられる経験をしていない者は、『丸ごとを受け容れる』という感覚を腹の底から理解できない。
親自身が安心して帰ることの出来る『ホーム』としての自分を持っていないから、その愛には常に自身に対する不安と不信が付きまとう。
この愛し方はなにか違う、どうも妙だ、とは心のどこかで感じているが、『それ以外の経験がないから』なぜ妙だと感じるかがわからない。しまいに『妙だと感じる自分』『なにかおかしいと考えてしまう自分』を『自分は変な奴だ』と無理に世間様に合わせてねじ伏せ、自己否定の感情を一層強くする。
結果、益々樹海の奥深くに迷い込んで出られないまま、やがて自らの命が終わりの時を迎えるのである。その終わり方は一見平穏無事なこともあるし、今回の事件のような悲しい形を取ることもある。

自分が死ねば問題が終わるように思って、どうぞ自分の存命中には家族に『問題』が起きませんように、とどこに向けてだか知らない勝手な祈りを捧げている不埒な、人生に後ろ向きな親もいるだろう。私の親はその典型例だった。
お生憎様、世の中はそんなに甘くない。一族の課題はそれを辿る人間にいつまでもいつまでも止めることなく解決を迫り続ける。
自分だけは無事に目を瞑れるなんて、甘い考えだ。自分が感じた愛し方への違和感に蓋をして、『無事に』『何事もなく』『平穏に』生きられたとしても、その解決すべきツケは大きな利息を付けて、必ず次世代へと引き継がれる。
自分さえ良ければいい、という不遜な考えを軽蔑しながら、自分はそれを平気でやっているのだ。そんなところに子孫への本当の愛なんて存在しない。

こういう問題が起こるようになってから、気の遠くなるほどの時間が経過している。
奈良で超有名進学校の生徒が自宅に放火し、母親と妹がなくなった事件があったのはもう随分昔のことだ。でも今に至るまで、同じような事件は相変わらず起こり続けている。
なんだか悔しくてしょうがない。
この子の人生、返してやれよ!とどこかに向かって叫びたくなる。

親を殺したいと思って生まれてくる子はいない。
子供を殺人鬼に育てたいと思う親もいない。
親も昔は子供だった。
戦争から始まり、高度成長期を経て『負けるのは悪だ』『人より抜きん出なければ』『誰かを蹴落としてでも這い上がらなければ』という歪んだ稚拙な価値観が生まれ、人々の心の中に受け継がれてきた。
時代は凄い勢いで変わり、価値観もドンドン変化していく中で、まるで恐竜の歩いていた時代のような古い価値観に縛られた人々と、それをうまく利用して金儲けの手段にする様々な輩が、新しい時代を生きようとしている子供を内側から蝕んでいる。
蝕まれた子供がまた子供を産み、同じ価値観で子供を育てて、同じ軋轢を生んでいく。
子供自身が気付いて向き合うまで、この問題はいつまで経っても終わることはない。

『世間』もなかなか変わろうとしない。しかしそこに期待してはいけない。
『世間』に後ろ指を指されても、自分が変わることを恐れてはいけない。
『世間』は自分の人生に何一つ責任を持ってくれない。自分の人生に責任を持てるのはただ、自分一人きりなのだ。腹を据えてその事実を認めねばならない。
今まで自分を形作ってきた価値観を疑うことに、怯んではいけない。
親も子も、まずは自分を愛さねば始まらない。
どうか早く、気付け。気付いてくれ。事は単純明快なのだ。
もうこんな事件を起こさない為にも、自分の内なる声に蓋をしないで欲しい。
私はこれからも、親として、子として、日々自分の声に敏感に耳をすませて行く。