諦めが肝心
パンの袋やビールの缶などに、時折『抽選で〇名様にプレゼント!』などと書かれた小さなシールが貼ってあることがあるのをご存知の方も多いだろう。
私はこういうものに全く興味がなく、イチイチ気にしていないのだが、我が伴侶はこれが大好物である。
シールを見つけると、うやうやしく剥す。そういう時の顔はとても嬉しそうである。
会社で飲んでいる缶コーヒーにも着いていることがあるらしく、毎度毎度チマチマ剥しては、楽しんでいるらしい。
変な人である。
ここまで読んで下さった方はきっと、
『別に応募シールを熱心に集めるくらい、目くじら立てなくても良いじゃないか。お得なこともあるだろうに』
と妻である私の狭量を責めるだろう。
しかし、問題はここからである。
夫はあくまでも『シールを剥して集めるのが好き』なのであって、『応募するのが好き』なのではない。つまり、いそいそとなんの得にもならないゴミを、集め続けている訳である。
剥したシールを綺麗に台紙にでも貼るのなら、まだ許せる。
ウチ一番の面倒くさがりぐうたら星人が、そんなマメなことする訳がない。
剥したシールはいつも手許にある、スマホのケースの内側に適当に貼られる。
「そんなとこに貼ったら見た目、汚いやんか」
と抗議すると、
「貼りっぱなしにせえへんから、大丈夫や」
と胸を張る。なんの自慢か分からない。
こうやって集められたシールは、夫のスマホケースの内側にドンドン溜まっていく。
剥されて、糊が不十分についている夥しい数のシールは、目を覆うばかりの汚さである。これが自分の夫であると、認めるのが辛くなるくらいだ。
あまり溜まってくると、本人もスマホが使い辛くなるらしい。
「どっかに移動しよう」
となる。その『どっか』がまたまた問題である。
私なら葉書が手元になくても、せめて広告の裏側とか、ノートを一枚千切ってこれに充てるだろう。本来応募シールとはそういうものだ。
しかし、夫はそうはしない。
貼り付けるのはこともあろうに、夫の仕事机である。しかも机の平らな面ではなく横、つまりとても貼り付ける面積の少ないところである。
平らな所に貼ってしまうと色々と使い辛いからだろうが、見た目にとても汚い。子供の頃、お気に入りのシールを学習机に貼って、親に怒られたことを思い出す。こっちは齢六十のお爺さんである。
掃除するために夫の部屋に入り、これを発見すると、なんだか情けなくてため息が出てしまう。
かなりの数が溜まってくると、こちらは『そろそろ葉書に貼るだろう』と淡い期待を抱いて見ているのだが、夫は一向にそんな素振りは見せない。
本人に訊くと
「いずれ応募する」
とは答えるのだが、どうやら面倒な様子である。
しかしうっかり
「応募しておいてあげようか」
などと言えば、今後癖になるのは目に見えているので、口が裂けても言わない。
そうこうするうち、応募の締め切りが来る。それでも夫はシールを机の横にずらりと貼り付けたままにしている。
「これ、期限過ぎてんで」
と私に言われると、
「あっ!しまった!応募しようと思ってたのに」
とはいうが、たいして残念そうにも見えない。
「捨てるで」
というと、漸く
「うん、しゃあないな。捨てといて」
というのだが、自分で始末しようとは絶対にしない。
昔は『自分でやらんかい!』と怒っていたが、最近は『良かった、やっと捨てさせてくれる』と思うようになった。
慣れというのは恐ろしい。
しかし最近はシールを葉書に貼り付けて応募、というスタイルはめっきり少なくなり、シールをめくったところにあるQRコードを読み取って応募・・・というパターンが増えているようだ。
だから夫がシールを溜める必要性はほぼなくなっている。
それにもかかわらず、夫の机にはやはりいっぱいシールが貼られている。
訳を訊くと、
『シールが貼ってあったら取り敢えず剥しておくことにしている。休みの日にゆっくり見て、応募する』
ということらしい。
でも未だ嘗て、夫が応募したのを見たことも聞いたこともない。
今も夫は、あるシールを溜めている。机に貼られた小汚いシールを横目で見つつ、今度もやっぱり応募しないんだろうなあ、と思っている。
この変な収集癖なんとかならないだろうか、とは思うが他人は自分の思うようにはならないものだから、僅かな未練を残しつつ諦めている。
今回も見ないふりをしながら、期限が切れるのをじっと待つことにしよう。
それがこの人の妻となった定め、なんだろう。