楽しんで頑張る
ここは一発頑張らないとダメだ、という時は誰にでもくるだろうが、私の場合、今まで悲壮感をもって頑張ったことは大抵上手く行っていないような気がする。「よっしゃあ、ここから上昇気流に乗るぜい!」とワクワクしながらジャンプする前に軽く屈んで力をためるような気分になれる時は、百パーセントすんなりと上手く行っている。
悲壮感は「余分な力み」につながる。「余分」がどれくらいのことを指すのか、具体的に表現するのは難しいけれど、「余分な力み」は「自分にはこれは無理かもしれない」という自己不信の発露であると思うからだ。「発奮」するのは結構だが、多くの場合、「余分な力み」は頑張るパワーを削ぐと思う。
実際には頑張っているように見える人でも、「私、自然体なんです」「頑張ってません」と言う人がいる。そしてそういう人達は、その言葉が本当に身にあってしっくりくる人と、そうでない人に分かれる。表情や醸し出す雰囲気、言葉の端々から勝手にこちらがそう感じる、というだけのことだが。
別に「頑張る」のは悪いことではないのだから、頑張ってたっていい。どちらであろうとも、喧伝する類のものではないだけである。まあそうすることで自分を鼓舞したい、というならそれも良いだろう。
「頑張っていません」ということをやたらアピールする人は、そう言う事で自分を認めて欲しいのかな、イタいな、と根性の悪い私なんかは感じてしまう。尤もそれもその人の通る道なのだろうから、いずれ「私イタかったなあ」と思う時が来たら過去の自分を恥ずかしく思うだろうが、思ったところで過去の自分はもう変えられないから、どうしようもない。人間は死ぬまで成長できる生き物なのだから、イタい過去の自分もそういう通過点に居ただけだと思えばいい。
私が今一番「頑張りたい」と思っているのは、エスクラリネット演奏の技術を上達させることである。
音程、音色、フィンガリング、どれをとっても私にとってはかなり手強い相手である。でも私はそれらの相手と「闘おう」とは思っていなくて、上手になっていく(予定)過程を楽しもう、と思っている。
そもそも楽器演奏の技術に「これで終了」というゴールなんてない。素人の手すさびなんて、尚更である。端から良い感じに諦めがついていて、「余分な力み」が抜けているのも良いのだろう。
年齢的に色々もうドンドン下り坂になっていくから、困難は増える一方になるに決まっている。けれど今の私には不思議と悲壮感はなく、「無理になってきたらどうやってそれをカバーしようか」とか「どんな風に練習方法を工夫すれば坂を転げ落ちるスピードをゆっくりにできるか」なんてことを考えながら、ワクワクして練習している。
こういう日々の練習の中では、ふとちょっとしたひらめきに出会うことがある。あ、こうすりゃ良いのか!と腑に落ちる瞬間がある。レベル的には随分低いところでの話なのだろうけど、この瞬間に出会える事が私はとても嬉しい。これがあるから練習するのが好きなのだ、とも言える。
この瞬間には、そうそうしょっちゅうお目にかかることは出来ない。それもまた楽しくなる要因である。予期せぬときに目の前に突然「ほらっ」と熟れたリンゴが木から落ちてくるような、不意にもらうプレゼントのような感じがする。
予め出会う瞬間がわかっていたら、きっとこんなに嬉しくないだろう。
エスクラリネットの練習を私が「頑張っている」かと言えば、そう見えるかもしれない。だが私にとっては「頑張っている」感はなく、「楽しんでいる」感のみがある。根性とか、なにくそ魂とか、不眠不休とか、歯をくいしばるとか、とは一切関係ナッシングである。
実質的には一定の時間を練習に割いて、上手くなるべく努力?しているので、間違いなく「頑張って」いる。でも「楽しんで」いる感覚の方が大きい。
だから自分が望み状況が許す限り、いつまでだって「頑張れ」そうだと思っている。
私は「楽しんで頑張る」のが性に合っている。
悲壮感は要らない。