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テスト、テスト、またテスト

学生を卒業したらテストとは無縁になれると思っていたが、世の中はそうは出来ていないらしい。
銀行員時代、特に新人のうちはテスト三昧な日々を送った。
簡単なものでは、札勘のテストから、難しいものではFPの試験まで、テスト尽くしだったように思う。
無事にすらりと通過したものもあれば、手こずったものもある。しかし五十代になる今まで『あのテストを受けておいて良かった』としみじみ感謝できるようなテストは一つもない。残念なことだが、胸を張って断言できる。
あの数多のテストには、私の人生に於いて一体何の意味があったのか、未だに疑問である。

子供が幼稚園に入った年、短時間のパートでも出来ればと思い、宅建資格を取得した。それまでもなんとなく遊び半分で受けたことはあったが、全く勉強をせずに受けていたので、落ちて当たり前だった。
再び働くことが出来るかも知れない、と思って育児の合間に勉強に勤しんで受けた試験はなんなく合格したのであるが、結局その資格を活かした仕事には未だに就けずじまいである。
よく考えると、これも一体何のために受けたのか、よくわからない。
今考えると『資格を得ること』のみが目標になっていて、その先のことは全く考えていなかった気がする。専業主婦でもなにかしら、『社会』から必要とされたい、という当時の私の必死な思いが、試験勉強に向かわせたのだろう。
我ながら涙ぐましくもある努力だと思うが、果たして意味があったのだろうか。資格は一生モノではあるが、もう随分忘れてしまった。今からこれを活かして働く気なんてさらさらない。

専業主婦となって数十年経ち、久しぶりに受けたテストは、パート先のスーパーの『適正テスト』だった。
簡単な計算問題が五十問。五分で解き、提出する。この結果で不採用になったという人は聞いたことがないから、余程出来ない人でない限り受かる、通過儀礼的な試験なんだろう。
なんで四十代も半ばを超えて、息子が小学生時代にやっていた公文のプリントのような四則混合計算をしなければならないのか、とちょっとバカバカしくもあったが、一応無事にこなせたお陰で現在の職にありついている。
でもやっぱり、あの試験を受けた意味は今もって感じられていない。

今の職場は何かとテストが多い。
コンプライアンスのテスト、防災のテスト、免税のテスト。主なものはこの三つだ。他にも細々と接客姿勢のテストだとか、うんざりするくらいある。
末端のレジ係であろうと主任であろうと、店長以外全員が受験を義務付けられている。テスト結果は本部に自動送信され、期限までに受験しなければ、個人と『店長』宛に『受験が済んでいませんが、忘れていませんか?』という督促メールが届く仕組みになっているから、本当にタチが悪い。
必要だから受けることが義務付けられているんじゃないのか、と仰る向きもあろう。が、現場の人間からすれば
『テストより経験』
と言いたい。パソコンに向き合ってしょうもないテストを受けるより、目の前の一人のお客様をこなした方が自分の成長に余程役立つ気がする。
何よりクソ忙しいのに、テストなんか受けている場合ではない、と言うのが本音だ。

テストは大体三十問以内で済むが、姑息な引っ掛け問題があったりすると、
「知識の定着をはかるのが目的の癖に、ふるい落とすのが目的の試験みたいなことすんな!」
とやり場のない怒りを画面に向かってぶつけることになる。
満点を取らねば受けたことにならない為、合格するまで幾度もトライしなければならないのもキツイ。
これは何も私一人に限ったことではなく、このテストを受けねばならない人皆がブツクサ言っている。
実技では出来ることが、あらためて試験形式で問われるとウッと詰まったりするのは不思議なものだ。

なんせ、こっちは短時間勤務のパートであるから、時間的にもともとかなりタイトな中で、テストを受ける時間を捻出しなければならない。
私の場合、朝売り場を掃除して、接客し、レジの両替に行き、商品整理をし、シフト表を作り・・・とやっている間を縫って、このテストをやる訳だ。忙しくて、こんなことをしている時間は本音を言うと惜しい。
しかし済ませないと店長にメールを送られてしまうから、一問解いては鏡を拭き、一問解いてはレジを打つ。でないとあっという間に退勤時刻になってしまうからだ。
本当に忙しない。

いつになったらテストから解放されるのだろう。
なんでも運転免許の更新も、高齢者にはテストがあるんだとか。
ああ、人生どこまで行ってもテスト、テスト、テストだなあ。
早々に逃れたい!