百パーセントの信用
「今のお仕事をしていて『これを学んだなあ』と思うことって何かありますか?」
初対面の時、夫が私にした質問である。今改めて考えるとまるで就職面接みたいだが、当時の私はなんとも感じず即座にこう返事した。
「そうですねえ…『人は百パーセント信用してはいけない』っていうことと、『人はお金でガラッと人格が変わる』ってことでしょうか」
私の返事を聞いた瞬間、夫が喫茶店の椅子の背もたれに仰け反るようにして、
「どんな会社に勤めとんねん」
と呆れたように呟いたのが懐かしく思い出される。
でもこの私の意見は当時、心の底からの本音だった。
四年続いた、店長による理不尽なパワハラは私の心をすり減らした。だがそれと同じくらい、店長に迎合し同じように理不尽に私を叱責する”ふり”をする中間管理職の態度にはイライラさせれた。
彼らは決まって、店長が退店すると掌を返したように、
「怒ってすまんかったな。サラリーマンの辛いところや」
とヘラヘラ笑いながら言い訳した。黙って聞きつつ、人間なんて信用するもんか、と固く誓ったものだった。
職業柄、お金にまつわる人間の悲喜こもごもを見てきた。
相続が『争続』になる家も嫌になるほど見た。それまでの暖かい素敵なご家族が、人が違ったようにいがみ合うのを見るのは辛いとしか言いようがなかった。後でこんなになるなら、死ぬ時にお金なんて沢山残さなくて良いんじゃないのか、と本気で思ったことも数知れずある。
宝くじに当選したり、遠縁の親族から思わぬ額の大金が転がり込むなどして一夜にして「お金持ち」と呼ばれる人種になった人達は、大抵それまでとは別人のようになった。良い方に変化するのではない。失礼な言い方だが、残念なことに顔つきが浅ましくなり、態度が横柄になる方が殆どだった。
そういう方々はお金は沢山あるけど、正直「幸せそう」には見えなかった。今手にしている資産を失うことに常に怯えている癖に、反面「お金を沢山持っていること」を誇示したがる。以前の自分とは『格』が違うことを周囲に認めさせようと躍起になる。その眉を顰めさせる態度こそが、その人を幸せそうに見せていないことに気づきもしない。
多くの人々はお金は得ても、もっと大事な『人間としての尊厳』を失っているように、私の目には映っていた。お金に「支配されている」ようだった。
こういった経緯があり、上記のように答えてしまった。夫はさぞかしびっくりしただろうと思う。
あれから二十年以上の月日が経った。基本的には私の考え方は変わっていない。
人間は九十八パーセントは信用しても良いけど、百パーセントは信用してはいけないと思っている。
昔と違うのは、この意見が「恨みつらみ」に端を発していないことだ。
「信用する」という壁に自分がべったりもたれないように、ほんの少しの隙間を作っておくようにしただけのことである。百パーセントもたれると、自分を見失ってしまうからだ。
人間には色んな側面がある。人の感じ方はそれぞれ違う。それをしっかりと胸に刻み、事ある毎に自分に言い聞かせるようにしている。
人はお金で変わる、とも思っている。だけれども、嫌なものを見るような悲しい気持ちはそこには皆無だ。
自分だって大金を手にすれば人格が変わるかも知れない。人間には誰でもそういう弱いところがある。聖人君子ではいられない。その現実を淡々と受け容れているだけである。
「人を信用しきれないなんて、寂しい考え方だ」
「人間がお金で人格が変わると思っているなんて、割り切り過ぎだ」
と言う風に道徳的に美しい論調で批判するのはとても容易い。昔の私はそうでなければいけない、いう気持ちになって、一層自分を苦しめていた。
だが、今の私は両方の考え方があることを認めた上で、「自分発」の意見を持っている。私の意見もそうでない意見もあり、である。
私の意見を世間がどう思うかは、私の与り知らぬところだ。
因みに夫は私の答えを聞いた時、
「この子は余程ひどい経験をしたのだろうか」
と考えこんでしまったそうだ。
それまでのお見合い相手にも同じ質問を投げかけていたが、こんなサバサバした答えをした子はいなかったらしい。
そんな変な相手と結婚することになるとは、夫も思わなかったことだろう。
昨夜はそんな出会った頃の四方山話を夫としながら、
「来年もよろしくね」
と話し合った。
今傍らには私がもたれかかることなく、例外的に百パーセントの信頼を寄せる人がいる。夫婦って「なるもの」ではなく、「なっていくもの」なのだと思う。
全ての出会いに感謝しかない。