『歌う』って難しい
私のクラリネットのレッスン初期の頃、師匠のK先生はよくため息をついて、
「本当にブラス(吹奏楽)の人は歌えませんねえ」
と仰ったものだった。
『歌う』とは言葉での説明が難しいけれど、『情感を込めて、周囲にそれが伝わるように演奏する』とでも言ったら良いだろうか。
いや先生、私下手な方なんでブラスの人でも上手い人はちゃんと歌えます、と言ったのだが、先生は渋い顔をして首をひねっておられた。
その頃には先生から色々と課題の曲を与えられていたのだが、一旦それら全てをお休みし、これを練習して来なさい、と与えられたのはバッハの無伴奏チェロ組曲の第一番だった。
クラリネット用に編曲してあるが、速く吹けとか、大きく吹けとかの演奏の指示が全くない楽譜で、とても面食らったのを覚えている。
先生は『歌えない人には必ずこれをやってもらう事にしている』と仰った。
クラリネットは他の多くの管楽器と同じように、大きな跳躍が難しい楽器である。
この曲は5度、6度の跳躍も多用されている。その上に音域が広く使われているので、なかなか厄介である。滑らかに聴こえねばこの曲の良さは出ない。ただの運指練習になってしまう。
兎に角回数をこなそうと、裏表紙に正の字を書いて練習していたら、先生に見つかってそういう事をやってもらいたいんではない、と言われてしまった。
途方にくれる私に、先生はチェロの演奏を片っ端から聴け、気に入った物を真似ろと仰った。
それまで私はチェロの音は好きだったが、知っている演奏家と言ったらヨーヨー・マくらいで誰も知らなかった。
しょうがないので、色々聴き始めた。来る日も来る日も聴いていると、演奏家によって同じ曲とは思えないほど違う表現がある事がわかり驚いた。
『歌い方』があまりにも沢山ありすぎて、戸惑ったのである。
淡々と歌う人も、ねっとりと歌う人も、みんな『自分でそうしたいからしている』のがめちゃくちゃ伝わってきて、こんなの私に真似出来るのか、と疑問に思った。
上っ面だけ真似ても、そこに魂はこもらない。良いんだろうか、と不安は増すばかりだったが、恐る恐る真似てみた。
何回目かのレッスンの時、私の演奏を聴いた先生はニヤニヤして、
「誰の聴きました?誰の真似しました?」
と仰った。
どれにしようか色々迷ったが、『歌ってる』感満載のヨーヨー・マの演奏を真似た…つもりだったのだが、そう言うと先生にクスクス笑われた。
「ちゃんと聴いたら、そうはなりませんよ。もっと集中して聴きなさい。彼が何を言わんとしてるのか、もっとちゃんと掴みなさい。演奏を真似るのはそれからです」
と小難しい事を言われて、頭を抱えるやら、恥ずかしいやら、であった。
結局、最後まで「良いでしょう」というお言葉は頂けないまま、その曲でのレッスンは終了した。正直言うとホッとした。あまり楽しいとは思えなかったからである。
が、その後、いつの間にか『歌う』らしき事がそれなりに出来るようになったようだ。『ようだ』と言うと自分の事なのに、と思うが、自分では歌えているか自信がないのである。
ただ、あるフレーズを目にすると『多分こう吹くかな』というカン?のようなものが冴えて、勝手に歌うように吹いている事が多い。先生もそれで何も仰らない。
音楽教育的にはちゃんと意味のある事をやってきたのかも知れないが、自分の感覚としては本当に『野生のカン』であって、意思を持って歌っているわけではない。ただ『正解はこれかな』という所を外していないような気がするだけである。
それでも、それっぽく吹くのはただ機械的に吹くよりずっと楽しい。
『歌う』事は私にとって、未だに五里霧中である。
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