どもならん男
父が現役の公務員でまあまあの地位についていた頃は、我が家は毎年部署の新年会の会場となっていた。といっても決して大広間があるような豪邸ではなかったから、六畳ほどしかない唯一の客間の色んなものを二階に避難させてふすまを取っ払い、なんとかそれらしい広さにするのが新年会前日の夜の恒例行事であった。
家族総出で準備しないと間に合わないので、私達子供もいつも手伝っていた。手伝ったからって父から何か貰えるわけではないが、手伝わないと父の逆鱗に触れるので、渋々やっていた。
公務員と言っても父のいた部署は荒っぽい人が多かった。酒豪も沢山いて、母は酒の準備にいつもてんてこ舞いしていた。当日料理や酒を運んだり、台所の片付けなどを手伝わないと今度は母の逆鱗に触れるので、これまたしょうがなく手伝っていた。
が、この日は料理を運んでいくと、
「あけましておめでとう。お手伝いご苦労さん」
と言って皆さんからお年玉をもらえるという”ご褒美”が付いていたので、酒とタバコの匂いの充満する部屋に突入するというハンディを背負ってでも手伝う値打ちはあった。
父の連れてくる人の中に、Mさんという一際若い人がいた。無口だが酒はめっぽう強い。グイグイ飲みつつ、みんなの言うことを黙ってニコニコ聞いている。自分からは発言しない。
たまに話を振られても二言三言で済ますのだが、のんびりしたその受け答えに場がどっと沸いたりする。それでもやかましく笑ったりしない、静かな人だった。
Mさんは碁が好きで、みんなが段々酷く酔っぱらって口数少なくなってくるとポケットから小さい折り畳み式の碁盤を出して、一人詰碁をやっていた。かなり飲んでいる筈なのに全然眠そうでもなく、真剣に碁盤に向き合っている姿をよく見かけた。
父の話では、アマチュア有段者なのだということだった。
ある年の新年会の席で父がMさんに、
「オレ、碁はルール知ってるで。いっちょやらんか?」
と酔っぱらった勢いで言ったら、それまでほぼ黙ってニコニコしているだけだったMさんが目を輝かせて、
「ほんとですか。じゃあやりましょう」
と大喜びして玄関から外に出て行った。ウチには碁盤はないし、あの小さいポケット碁盤では無理だし、もう随分酒が入っているから家に取りに帰ることも出来ないし、と不思議に思っていたら、しばらくしてMさんが碁盤を抱えて戻ってきた。
「こんなこともあろうかと、車に積んでたんです」
と言ってニコニコしている。
「お前、車って、どうやって帰るつもりやってん?」
呆れた父が聞くと、
「はい、課長(=父)のところに泊めて頂きます」
と平気で言うので、今度は私達もビックリしてしまった。
母は大慌てでMさんの宿泊の用意を整えていた。
みんなが帰ってしまった後の広間でMさんと父は暫く碁を打っていたが、ルールをそこそこ知っているぐらいの父と有段者のMさんでは勝負になる筈もない。しかも父は相当グデングデンである。だがMさんはとても嬉しそうに碁盤をのぞき込んで、ろれつの回らない父を相手に真剣に話していた。
やがて父が寝てしまうと、母がそのあたりを片付けてどうにか一人分の布団を敷き、まだ碁盤とにらめっこしているMさんにどうぞ、と言った。Mさんは悪びれもせず母の用意した父のパジャマに着替えると、ありがとうございます、おやすみなさい、と言って寝てしまった。
翌朝起きてきたMさんはまるで自分の家のようにシャワーを浴び、母の用意したご飯をうまいうまい、とお代わりを三回してすっかり平らげ、
「奥さん、お世話になりましてありがとうございました」
と碁盤を小脇に抱えて車に乗り込み、颯爽と帰っていった。
母は放心状態で笑っていた。
それから半年以上経ったある休日に、突然Mさんが我が家にやってきた。
「課長のお宅に正月お世話になったって言ったら、両親が送ってきまして」
Mさんのご両親は四国で農家をしている。差し出したのはスダチであった。良い香りが玄関に広がった。が、
「お前、これ全部かい?!」
父が笑いながら呆れていた。救急箱くらいの箱二つにスダチがぎっしり詰まっていたのである。
「お前しかも正月の礼って、冷や飯から湯気やぞ」
母も大笑いしている。Mさんは頭を掻きかき、スダチは今が旬で一番香りが良いので、と言った。
頂いたスダチは母がビニール袋に小分けして、近所に配ってまわった。
Mさんは永らく独身だった。父は誰か紹介したろうか、と母とよく話していた。のんびりし過ぎな感じではあるけれど、仕事は凄く出来るし、大学も優秀な成績で卒業しているし、出世に必要な資格も難なくクリアしてきているから、結婚相手に困ることはないだろう、とのことだった。
ところがそんなある日、また突然Mさんがウチにやってきた。しかも、可愛い女性を一人連れている。両親は慌てて二人を招き入れた。
家に通されるとMさんは開口一番、
「実は彼女と結婚しようと思っていまして。結婚式で仲人お願いします」
と切り出してウチの両親を驚かせた。
断る理由もないし勿論快諾したのだが、見送った後両親は大笑いしていた。
Mさんは結婚後すぐに仕事で南米に赴任した。帰国後は父とは違う部署になったが、節目には必ず、やっぱりアポなしでいきなりウチにやってきて両親を驚かせ、ニコニコしながら近況報告をして帰っていった。
礼儀にうるさいウチの両親もMさんの前では形無しで、いつも大爆笑させられていた。
「あいつはホンマにどもならん男や」
堅物の父がいつもMさんを見送って苦笑しながら、こう言っていたのを思い出す。
Mさんには何年か前に孫が生まれた、と聞いた。
きっととても優しい、面白いおじいちゃんに違いない。