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「今」は一瞬

先々週の土曜日だっただろうか、私の住む街の近くで女子高生が身を投げ、通行人が一緒に巻き添えになって亡くなった、という痛ましいニュースに接した。
画面に映し出されるその場所を見た時、驚いてしまった。だってその事件が起こった数時間後に、正にその場所を通ったばかりだったからである。
あの時はなぜこんなに警官がウロウロしているのだろう、とは思ったが、いつも人通りの多いところだし、土曜日の夕方となればさもありなん、と全く気にせずにいたのだった。
誰もそんな事件があった事なんて、全く気に留めていないように見えた。そんなもんなんだろうか、と気分が沈んだ。

女子高生にどんな事情があったのかは、知る由もない。彼女の内心は今となっては誰にも分からない。
彼女がどこの誰なのか、私は全く知らない。
だけど彼女が『死』という選択をした事が、残念でならない。言いようのない悔しさを覚える。死んでしまったら、もう二度とやり直しがきかないじゃないか。
彼女の人生は彼女のものだから、彼女の選択にどうこう言える人はいない。死のうが生きようが、彼女の自由ではある。
それでもやっぱり、踏みとどまって欲しかったと切に思う。

生きていれば大なり小なり辛いことに遭遇する可能性は、誰にだってある。
でもその辛いことを裏返せば、そこには必ず何か幸せの種が転がっている。幸福と不幸は表裏一体なのだ、ということを腹に落として理解するまで、時間はかかるかも知れないが、彼女は待つべきだった。
もう毎日毎日心配で、眠れなくて、こんな人生何のために生きているのか、と自らに問いかけたくなるような時期は誰にでもある。
でもその時期は、自分が『どう在りたいか』を強烈に問いかけ、答えを模索する、成長の為の貴重なチャンスなのだ。

渦中にいる時はそう考えにくいかも知れないが、どん底にいる時はそれ以上どん底に行くことはない。そしてどん底を経験すれば、這い上がる為のチャンスは、そう遠くないうちにやってくる。
その時期を逃げずに乗り越え、自分なりの一歩を踏み出したことは、後の人生を生きていくに於いて、必ず素晴らしい糧になる。自分の人生を支えるのは、究極は他でもない自分自身しかいないのだと気付けば、今自分の周りにあるもの、出会う人がとても有難いものであることに気付き、自然と感謝の気持ちが溢れる筈だ。

でもそういうことを十代で知りうる人は、多分そんなに多くは居ない。私だって、五十を過ぎてから会得した感覚である。
だからまだ人として生きる初心者マークが取れたばかりの十代後半なんかで、生きることを簡単に諦めないで欲しかった。
つくづく悔しい。

人は『今』だけを生きているのではない。
『今』は、『過去』から繋がった『未来』に続く『今』である。
『今』、自分が苦しいと思う気持ちは大切にしなければならない。そんなの吹き飛ばせ、なんてことは言わない。
苦しい自分を可哀想と思うなら、思い切り大事にしたらいい。可哀想だったね、と自分をなでなでしてあげれば良い。
誰かに話を聞いてもらっても良いが、最終的に自分を労わり『悲しいよね』と寄り添ってあげるのは『自分』でないと、永遠に『自分』は納得できないように、人間は出来ている。
他者はあてにしてはいけない。命は他者への失望を表す為に安易に投げ捨てるものではない。
自分を愛おしむために、目一杯使うんだよ。

『死にたい』という人間ほど、『生きたい』のだ。その事実を素直に認めるべきだ。
『今』自分が自分に寄り添うことが難しくても、『未来』には出来る可能性が大いにある。恐れずに自分に向き合うことは、死を選ぶことよりも難しいだろう。それでも自分を諦めないで欲しい。
『今』の自分は泣いていても、『未来』の自分は笑っているかもしれないことに思い至って欲しい。
『今』は一瞬じゃないか。『未来』に続く道を自ら断ち切って、そこに何が残るか知っているか。
残された者達の、決して消えることのない激しい後悔と悲しみである。そして自ら命を絶った人は、実は大勢の人間に愛され、必要とされていた、という事実である。
そんなものをこの世に残して、一体何になる?

若い人のこういう話を聞く度、どうにかならなかったのか、といつも悲しい思いでいっぱいになる。
どうか一人でも多くの若い人が、自らの命を粗末にしないようにしてもらいたいと、願わずにはいられない。