厳しさは優しさ
クラリネットの師匠であるK先生は、私がレッスン中に運指などでもたつく様子を見せると、ふうーとため息をついて
「もしかして、貴女は不器用な人ですか?」
と小馬鹿にしたような視線を投げて寄越すのが常だった。
違います、と言えれば良いのだが、先生の指摘は正に真髄を突いていたから、そう言われると私は小さくなって
「はい・・・」
と返事しながら、苛立つ先生を横目で見つつ、うなだれていた。
先生のお怒りが怖いというのではなかった。
先生を少しでも満足させるような演奏が出来ない自分に対する情けなさと、あれだけ練習してきたのにレッスンの場ではその成果を発揮できないということに対する悔しさ、もどかしさ、ふがいなさ、そんな自分に対する負の感情で心がパンパンになってしまうのだ。
先生に向かって言うのは憚られたけれど、それがあまりに辛い時は、ついこんな独り言をこぼしてしまうこともあった。
「リードの具合が思わしくない・・・」
「やっぱり疲れてるとダメなのかなあ・・・」
先生は私のそんな愚痴を聞き逃さなかった。
いつだって間髪入れず、耳の痛い言葉が石礫のように飛んできた。
「ハイ、言い訳はやめましょう!言い訳して上手になる人はいません。本番の舞台上で、貴女は今言った言葉をお客さんに向かって言うんですか?お客さんは『ああ、そうなのか』と許してくれますか?仮に許してもらったとして、貴女はそれで満足できますか?」
仰る通り、と縮こまる私に、先生はなおもこう続けた。
「最適なリードを用意出来なかったのは、貴女です。レッスンに向けて体調を整えられなかったのも、貴女です。リードが悪い、体調が悪い、のではありません。全て、貴女の責任なんです。何かの所為、にしないで下さい」
ぐうの音も出なかった。
「あんなに練習したのに、どうしてダメなんだろう・・・」
なんて愚痴ろうものなら、こんな言葉が返ってきた。
「貴女はこれを何回練習しましたか?百回ですか、二百回ですか?何百回やったとしても、今日現在の段階で、貴女はこれを出来るようにはなっていません。ということは、まだ練習が足りない、ということです。十回やって出来ないことは百回、百回やって出来ないことは一万回するんです。出来るようになるまでやるのが練習です」
先生の言葉には、実際にその通りにしてきた人にか出せない重みがあって、私は自分の甘っちょろさを随分反省したものだった。
『不器用』と言われて俯く私に、先生は
「不器用なのが悪いのではありません。確かに器用なのは有利です。でも器用だろうが不器用だろうが、出来るようになるのにコツや王道はありません。僕は『コツ』なんて言葉は大嫌いです。『上手くなるコツは?』と訊かれた時は、『練習することです』と答えるようにしています。『不器用である』ことに甘えていてはいけません」
と厳しい言葉を次々と投げかけた。
『不器用』と言われたことよりも堪えた。
ハッキリとは仰らなかったけれど、今なら先生の仰った言葉の意味がより深く理解できる。
要するに『出来るようになる』ということは、『自分に言い訳しなくて良いようになる』ということだと思う。
言葉も全く分からず、知り合いもいない外国でただ一人、毎日ただ楽器と向き合いながら、来る日も来る日も練習を続けてきた先生だからこそ言えた、言葉の数々だったんだろう。
十年以上レッスンを受けていた間、先生も結婚や育児を経て少しずつ柔和になられ、私も不用意な泣き言を言わなくなり、こんな言葉を頂戴することは段々減っていった。
私が時折、
「そう言えばあの時、先生はこんな風に仰いましたね」
などと思い出したように言うと、
「そうでしたか。キツイこと言ってたんですねえ。スイマセン。帰国して間もなかったから、キリキリしてたんでしょう」
と照れ臭そうに笑っておられた。
「厳しくないレッスンもできますよ。貴女はどうしたいですか?」
と最初に訊いて下さった先生。
今振り返ると、厳しい方の道を選んで良かったと思う。
この歳になっても楽しくクラリネットを続けられているのはきっと、この時の先生の厳しいご指導があったからこそだろう。
先生から頂いた厳しく温かい教えの数々は、練習している時ばかりでなく、普段の生活に於いても、折に触れて私の耳に甦る。
そんな時、私の人生にこの素晴らしい師匠との出会いがあったことを、心から嬉しく思う。
本気の厳しさは優しさ、なのだ。