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そんなに大事なこと?

夫婦で他の人と会話する機会があると、話し終わった後に、夫は私に向かって必ずといって良いほど
「お前は空気の読めないヤツやなあ」
と言う。
私としてはそんな自覚は全くなく、
「え?そう?」
と無邪気に問うと、夫は深くため息をついて
「ホンマに鈍感やなあ」
と苦笑いする。
あんまりいい気はしない。

鈍感な人の代表みたいな夫に鈍感だと言われては、腹の虫がおさまらない。すぐに反撃を開始する。
「あんたは鈍感じゃないって?」
いや鈍感やろ、と言いたい気持ちを言外に滲ませる。夫は全く気付かない風だ。そういうところが鈍感なのである。
「おう、オレはちゃんと相手が本当は何を言いたいか、いつも考えてものを言うようにしてるぞ」
夫、胸を張る。大きな疑問が頭をもたげた。思わず間髪入れず、真剣な顔で夫に尋ねてしまった。
「ねえ、それってそんなに大事なこと?」
「えっ」
夫はとても驚いて口を噤み、私をマジマジと見た。
しかし私は何も演技をしてこう言ったのではない。腹の底から不思議だったので、つい口からその思いが漏れてしまったのである。
夫の反応に、私も戸惑ってしまった。

『空気』は『その場の雰囲気』、『読む』は『察する』といったような意味合いだろう。
あまりにも場違いな発言は慎むべきだろうが、子供時代に親の顔色をひたすら窺って生きてきた人間は、どうもこの『空気を読』み過ぎるきらいがあるように思う。
子供は本来、親の顔色を窺うなんてことはしなくて良い生き物である。
圧倒的に世の中に対して弱い幼い子供にとって、親は安心できる庇護者である。その親が自分を疎んじていると感じれば、その信頼が足元から崩れる。生きていくのが不安になる。
この後も生きていくにはコイツの機嫌を取って、なんとか受け容れてもらわねばならない。結果、一生懸命『空気を読む』ようになるのだと思う。
親の状況が劇的に変化すれば、話は違ってくる。しかし大抵の場合そうではない。
そして『空気を読』み過ぎる子供は、長じてそういう大人になる。

私も過剰に『空気を読む』子供だった。
親の機嫌が悪くなりそうだ、と察知すると、かなり早い段階から先回りしてそれを未然に防ごうとつとめてきた。行動の結果、考えた通りに親が満足している様子を見せれば胸を撫でおろし、反対に効果がなさそうだと見ると次はどんなことをすれば良いか、一生懸命頭を働かせていた。
大きくなると、この傾向は周囲の人全てに対して現れてきた。友人、上司、同僚など、皆の考えていることを勘ぐっては、なんとか自分が先回りしようとした。
この傾向は、私が五十歳を過ぎるまでずっと続いた。大袈裟な言い方をすれば、私は自分の人生を歩んで来なかったのである。

どんなに一生懸命考えても、それは私が私の頭の中で考えたことであって、相手の考えではない。そんな単純で当たり前の事実に気付くまで、半世紀近くを要したのは残念な時間の使い方だったとは思うが、後悔しても時間は巻き戻せないからしょうがない。
自分をそのままでいい、と認めれば、相手のこともそのまま認められるようになる。『認める』は『好き』ではなくて、『存在の受容』である。
これが出来ていないと、延々と相手の腹を探り続けることになる。
苦しい人生である。

夫が私に向かって『空気読め』と言ったのは、『相手の発言内容から、本当の意図を汲み取れ』ということなんだろう。
しかし私は自分の発言に言外の意図を含ませるのが苦手だ。本当の意図なんて、ちゃんと口に出して言えば良い。『こんなことを言うのはアレなんですけど、実際のところ私はこう考えてるんですが』とソフトに言えば良いだけじゃないのか、と思う。
腹の中と口から出る言葉が合致していないのは、とても気持ち悪い。
相手の言葉なんて、先ずそのままの意味にとったら良いのでは、と思う。真意は相手にしか分からないのだから。

でも夫は私が非常識だ、と思っているようである。
私だって、あまりにも場違いな発言はしない。でも相手の言うことを深読みはしなくなった。おかげで人との会話の時はとても楽で、精神的にリラックスできている。
夫もそうすれば良いのにな。でも分からないみたいだ。
夫には夫の考えがあるのだろうから、今のところ黙って聞いておくことにしている。