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恋する乙女

姑が半年ぶりに帰宅した。重い洗濯物を持ちすぎて背骨を圧迫骨折し入院してから、老健施設でのリハビリを経ての久しぶりの我が家に、さぞ感涙にむせぶであろうと思っていたら、
「ウチってこんなに狭かったんやな」
というのが姑が最初に発した言葉であった。
「そら病院と比べたら狭くて当たり前やん」
姉と二人、呆れて笑う。

この日は新しいケアマネージャーさんが契約に訪れることになっていた。前のケアマネージャーさんはなかなかのおっちょこちょいで、必要書類を事業所に忘れてきてしまったり、約束の日時を間違えていたりということが頻発し、ついにそうでなくても忙しい姉の逆鱗に触れてしまった。そこで新しい方に代わって頂いたのである。
この方はSさんという男性である。前のケアマネさんより随分若いが、しっかりさ加減は月とスッポンで、姉はやっと色んな事がスムーズに運ぶようになってホッとした、と言っている。
「Sさん来はんのか?」
姉と私が色々片付けたり準備をしている傍らで、姑はソワソワと落ち着きがない。
「そやで、一時半にな」
姉が答えると、姑はやおら老健から持ち帰った山のような衣類を漁りだした。
「ちょっと、何してんの?何探してんの?」
姉が片付けの手を止めて姑に聞くと、
「ここにキラキラの入った黒いカーディガンがあったやろ」
と言う。
「パジャマでええやんか。寝ててもええねんで。契約やから、お母ちゃんは関係ないから。オシャレせんでもええって」
「いや、そういう訳にいかん」
姑は必死である。前のケアマネさん来るときはパジャマで平気だったのにな、とちょっと疑問に思う。
「ちょっと、洗濯もんぐちゃぐちゃになるやろ!やめて!」
姉に怒られても姑はまだ漁っている。しょうがないので一緒に探すとすぐに見つかった。それを羽織ると、姑は満足そうに台所の椅子に腰かけた。

約束の時間になり、Sさんがやってきた。名刺の写真よりずっと男前で背が高い。丁寧な物腰と爽やかな笑顔が好印象の、素敵な方である。そうか、それでか、と嬉しそうな姑の様子が腑に落ちる。
「お帰りなさい。久しぶりの我が家は如何ですか」
Sさんは腰をかがめて大きな声で姑に優しく話しかけた。姑が相好を崩す。
「えらい狭い汚い部屋に来てもろうて、すんません」
姑は社交辞令だとばかりに、必要以上に下に出る。Sさんがぷっと吹き出した。
「汚いって仰いますけど、随分綺麗に片付いてますよ。娘さんとお嫁さんで大変な思いして綺麗にしはったんと違うんですか?」
その通りである。私はケラケラ笑った。姉が憤慨する。
「そうなんですよ。ホンマに失礼な人なんですわ」
Sさんはニヤニヤして頷きながら、姑に
「ではこれから契約前の説明させてもらいますね。しんどかったらいつでも横になって下さってかまいませんから」
と優しく話しかけた。姑ははいはい、と嬉しそうな顔になる。やや腰が辛そうに見えるが、ベッドに行く気配はない。

Sさんは手際よくポイントを押さえて説明をして下さる。こういう契約書は内容の説明をするだけでもひと手間かかる。しっかり理解してもらおうと思うと、相手が聞きたがっていること、必ず話しておかねばならないこと、等を自分の頭の中で予め整理しておかねばならないと思うが、Sさんの説明は非常にわかりやすく、急に飛び出す質問にもよどみなく答えてくれ、「出来る人」なんだなあ、と感じた。

話も終わり、それではよろしくお願いします、とSさんが腰を上げかけた時、
「あの、私、聞いてもらいたいことがありますねん」
と姑がSさんを呼び止めた。
「お母ちゃん!Sさん忙しいねんで!何の話?」
姉が咎めても全く意に介さない様子で、姑は必死である。
「良いですよ、お伺いします。何でしょうか?」
Sさんは鞄を置いて座りなおした。職業柄とはいえ、どこまでも優しい人である。
「私ね、便秘がひどいんですわ。それで腸が下がってきてますねん。いっぺん検査してもらいたいんやけど、そういうのは誰に言うたらええんですか?」
姉と私は顔を見合わせて笑った。姑の『便秘』『いっぺん検査』は元気だった頃からのいつもの話題である。下剤はキチンと処方されているし、検査はこれ以上受けられないくらい受けている。
姉がSさんに小声で言う。
「不安神経症ですねん。こればっかり言うてて。こっちが心配なのは、便秘を理由にしてデイケアに行き渋ることがないか、ということなんです」
「なるほど」
Sさんは頷くと、姑に向き直ってにこやかにこう言った。
「あのね、先生が月二回来てくれますから、その時にお話ししてみて下さい。デイケアでも看護師さん必ずいますし、そう言った相談は聞いてくれますから是非デイケアに行ってみて下さい」
「そうですか、デイにも看護師さんいてはるんですね。行って色々聞いたらよろしいんやね」
姑はすっかりその気である。Sさんは大きく頷くと、
「リハビリもできますし、お風呂も入れますしね。お熱があるとかでない限りは、なるべく行って頂いた方が良いと思いますよ」
と姑に告げた。姑は子供のように
「わかりました。デイは行くようにしますわ」
と真面目くさって答えた。
「はい。お願いしますね」
そういうとSさんはまた丁寧に挨拶をして去っていった。姑はSさんの影が玄関ドアのガラスから見えなくなるまで見送っていた。その後ろ姿がなんだか可愛くて、クスっと笑いが漏れた。

いくつになっても素敵な男性にはときめくものらしい。
姑の素直過ぎる反応は、ちょっとうらやましい気もしてしまった。