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高嶺の花

私が中学二年生の時のことである。
ある日の夕方、一本の電話がウチに架かってきた。母が取り、
「ミツル、電話。D君から」
と言って受話器を差し出した。
私は怪訝に思ったが、取り敢えず母と替わった。

D君は小学六年生の時の同級生である。軽い知的障碍があった。主要教科の授業は支援学級で受けており、音楽や図工、体育といった教科やホームルーム、遠足などの行事の時だけ一緒に過ごしていた。
男の子だし、家も近くではなく、一緒に遊ぶなんてこともなかった。学校でも特に親しく言葉を交わした覚えもない。同じ班になったことも一、二回あったくらいだった。
そんなD君が私になんの用事だろうか。
当時は学級全員分の電話番号が書かれた名簿が全員に配られていたから、D君が私の家の番号を知っていても不思議ではない。
でも、今は同じクラスではない。六年生の時の名簿を見たとしか思えなかった。

「D君?こんにちは。どうしたん?」
私が話しかけると、電話口のD君は少し黙り込んだ後、
「ふられたんよう」
と訴えるように言った。
ふられた、って恋愛の話?D君が?予想もしない言葉に、私はびっくりした。
「D君、ふられたって、誰かに告白したん?」
「うん。ぼく、ふられたんよう」
半分涙声である。可哀想だが、訊かねばなるまい。
「誰に?」
「Mさん」
へえ、と益々びっくりした。そしてD君が気の毒になった。

Mさんはすらりと背の高い、綺麗な子だった。六年生の終わりごろに転校してきたのだが、彼女の纏っている雰囲気は、そこらに転がっている土付きのジャガイモみたいな田舎娘の私達とは一線を画していた。
美人か、と言われればそうでもないが、近くに行くと良い匂いがするし、ピアノは校歌の伴奏を任されるくらい上手だし、バレエも習っているし、小学生なのに濃い紫色のオシャレなワンピースを着てきたりする。男子もからかったりせず、一目置く存在だった。
中学校へ入っても、彼女はとても目立っていた。上級生のちょっと怖いお姉さん達から目をつけられて、呼び出されたりもしていた。
そのMさんにD君が告白した、というのである。驚かない方がおかしい。

結果は気の毒だけど、しょうがない。私はD君を慰めることにした。
「D君、いくらD君が好きでもな、必ずMさんが好きになってくれるとは限らへんやん?ふられたからって落ち込まんでもええんちゃうん。D君、ええ子やんか」
「ぼく、ええ子やのに、なんでMさんにふられたん?」
うっと詰まった。これは延々と同じ問答を繰り返すパターンかも知れない。それではD君の心の傷はいつまで経っても癒えないだろう。
どうしてあげたら納得するのかな。なんとか落ち着かせてあげたいけれど、私では到底無理だと思った。
取り敢えず、渋るD君を説得して一旦電話を切り、学校に電話した。
支援学級の先生なら話をしてくれるかも、と思ったのである。

もう夜だったから、電話を取ったのは用務員さんだった。この人はなかなかいい加減な仕事っぷりで、生徒の間でも保護者の間でも有名だった。でも元裏社会の人間だという噂だったから、誰も文句を言う人は居なかった。
「あの、K先生いらっしゃいますか?二年〇組の在間です」
「ほい、K先生な。探してくるわ」
勢いよく受話器をテーブルに置く音がしたが、十分以上待っても誰も出ない。私はしびれを切らして電話を切り、暫く考えた後、K先生のご自宅に架けた。
K先生は支援学級の先生ではなく、当時の私の担任だった。だが、前の年に支援学級を受け持っていたから、きっとD君のこともご存知だと思ったのである。

「おいよ、どうした?」
先生はご在宅だった。ホッとして一部始終を話すと、聞き終えた先生は
「ウワハハハ!!」
と電話口で爆笑した。豪快に笑い飛ばされて、私はちょっと気分が軽くなった。
「D君、泣いてたと思います。私、どう言ってあげたら良いのか、分からなくて。でもMさんもきっと困ったと思います」
そういうと、先生はまだ笑いながら、
「そうかそうか。よう聞いたってくれたなあ。おおきに、おおきに。心配すんな、ワシからよーく話しとくさかいにな。Mさんにも電話入れとく。すまんこっちゃったな」
と言ってくれた。
私は心から安堵して電話を切った。

翌日、D君と学校で顔を合わせると、
「おはよう」
と大きな声で挨拶して、ニッコリしてくれた。
良かった、先生上手く言ってくれたんだなあ、とホッとした。
ちょっと可哀想だったけれど、翌朝のD君の清々しい笑顔がせめてもの救いだった。
先生はD君にどんな話をして下さったのだろう。結局知らずじまいである。