『ダンドリーマン』が苦手なこと
私は自他ともに認める『ダンドリーマン』である。
段取りを考えるのが大好きで、自分の考えた段取り通りに物事が運ぶと何とも言えない快感を覚える。自己陶酔の極致である。
例えば料理する時。
まず必要な材料を全部調理台にがーっと出して並べる。料理番組みたいに綺麗に並べることはしないから、調理台の上はカオスな状態になるが、そんな事は気にせず、取り敢えず出してしまう。
次に必要量のカットのみ行う。人参はこれくらい、ジャガイモは何個、玉ねぎは半分・・・などといった具合に切って切って切りまくる。切ったものを片っ端から洗い桶に放り込む。残りは冷蔵庫に戻す。
それが終わるとひたすら洗う。アライグマよろしく、洗って洗って洗いまくる。次に皮を剥きまくる。次に調理に適した大きさにカットしまくる。
調味料を用意し、投入すれば良いだけの状態にしておく。
ここから調理開始、となる。あとはレシピ順に調理するだけだ。
料理上手な人ならこんなに一斉に準備しなくても、頭の中であ、次はこれ、次はこれ、と材料や調味料を思い浮かべ、手際よく取り出して調理できるのだろう。伝説の家政婦、タサン志麻さんがそうらしい。
が、私はこれが全く出来ない。流れが頭に入っていない、いやそもそも覚える気がない、ということなんだろうと思って諦めている。
以前、楽団の定期演奏会の実行委員長をやった時は、この段取り能力をフルに活用することになった。
何時に何をどこに配置するか。駐車場をどこに何台確保するか。先生の到着は何時で、逆算すると弁当の手配は何時で、先生は○○ブランドの緑茶がお好きで、それが一番安いのは○○スーパーで、そのスーパーに行くのは誰々が近いから買って来てもらって・・・などなど、砂粒を拾うような細かいことまで超絶キッチリと段取りを考えて用意した。
「水も漏らさぬ、ってこのことやね」
とスタッフの一人に唸られた時は、言葉は悪いがしてやったり、という感じを覚えた。
段取りが良いと安心感がある。だがあまりにも段取りが良すぎるのは良くない。経験上そう思う。
段取りが良すぎると何がマズいのか。
段取りが良いことに満足していると、段取りで進む道以外が見えなくなりやすい。他にも効率的だったり、良心的だったりするやり方があるかも知れないのに、段取りを上手くやれたことに『油断』して、視野が狭くなってしまうのである。
つまり行き過ぎた完璧主義の所為で自分の首を絞める結果になりかねない。
あと、イレギュラーな事態が勃発した時、非常に弱い。
ここも段取りに含めれば良いのだが、イレギュラーは予想出来ないからイレギュラーなのである。百パーセント備えることは出来ないだろう。
私は職場で朝の仕事をする際、次はこれをこうして、次はあれをああして、という具合に時間と効率を考えてこなしていくようにしている。
何も起きなければ出来るだけ短い時間で効率よく済ませられるように考えてやっているが、接客という仕事の性質上、どうしてもイレギュラーな事態は起こる。こういう時、ダンドリーマンは役に立たない。
急なことに対応するには段取る能力ではなく、『臨機応変』な考え方の出来る『柔らかい頭』が必要になるからである。
ダンドリーマンである私はここのところが非常に弱い。頭、ガッチガチなのである。
私は段取ることで物事が円滑にサクサク進むことよりも、『完璧に段取ること』そのものに満足しているような気がする。
一生懸命段取りをして『オイラって凄いでしょう!』とお山の大将になっているようにも見えるが、冷静に考えれば、必死のパッチでなんとか失敗を回避できるよう足掻いているだけなのである。
臨機応変に対応できる柔らかい頭があったなら、こんなに必死こいて段取らなくても良かろう。段取ることで満足し安心感を得られるのは、ひとえに自分の自信のなさに起因しているのだと思う。
それでも段取ることである程度のリスクは回避できているのだろうから、ダンドリーマンも悪くはない。ただ何事にも『完璧』はないということを、沢山の失敗から学んだ次第である。