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『詰んだ』と思う時

私の生きてきた道を振り返ってみると、『詰んだ』と思うような経験をしたことが何度もある。いつもスイスイとスマートに、自分の思うような道を歩んで良ければ最高なのだろうけれど、器用な性質ではないからそうはいかない。人生の方向性を変えるような大きなことから、くだらない小さなことまで、今まで本当に何度も『詰んだ』。
人間の歴史から見れば五十年ちょっとの時間なんてほんの一瞬で、取るに足りない短い時間だ。そんな短い時間の中で、ジタバタしたり慌てたりしている私の姿は、天にいらっしゃる神様の目にはさぞかし滑稽に映っていたことだろう。

『詰んだ』状態が一瞬で解決することもあれば、年単位で苦しむこともあった。
中学生の時、大好きだった部活を辞めた時は『詰んだ』し、大学受験に失敗した時も『詰んだ』。就職が思うように決まらない時も『詰んでいた』し、就職してお客様に損をさせた時も『詰んだ』。想い人と中途半端なウジュウジュした関係を続けていた時も『詰んでいた』し、結婚して子育て期間中も随分『詰んだ』という経験をした。
幸いにして大きく身体を壊すことはなかったけれど、こうやってみると、私の人生、笑えるくらい『詰んできた』ことばっかりのような気がする。

でも結果、私がどうなったか。
大人になって再開した楽器は未だに続けることが出来ている。辞めていなければ私が『基礎をなんとかしたい』と思うことはなかったのかも知れないし、師匠のK先生との出会いもなかったかも知れない。
不本意な大学に行きはしたが、そこで出会った友人や先輩達からは何度も助けてもらった。特にU先輩には就職の時、物凄くお世話になった。皆私がこの学校に来ていなければ、会えなかった人達である。
想い人と駆け落ちでもしていれば、私が夫に出会うことはなかったろう。
子供が大きくなり、私の子育ての失敗による親子の断絶を経験しなければ、私が真剣に自分と向き合おうと思うこともなかったと思う。
こう考えてみると、全てが私にとって良い方向に進んでいる。

『詰んだ』というのは『終わった』という意味で使われるようだが、長い目で見れば決して『詰んで』いない。ちっぽけな私の経歴が実証している。
災害や事故など不可抗力もあるだろうが、そうでない場合は『詰んだ』と感じる時は自分にとってしっくりきていない、何か変だなという感覚が、行く所まで行きついた結果そうなっている時だと思う。
本人がその状態に気付いているかどうか、は関係ない。
『詰んだ』と感じる時は苦しい。こんな状況、もういい加減終わらせたい、と思う。しかしここで『詰んだ』事象を短絡的に解決しようとすると、ロクな結果にならない。
それは自分がそうやって『詰む』ことに、ちゃんと意味があるからである。

大切な身内が亡くなった、大きな病気をした、明日食べるものも寝る所もない、などといった経験は私にはまだない。そんな人間が何を偉そうに、お前の『詰んだ』経験なんてたかが知れてる、と言われても私には言い返す言葉がない。
生きている限り、私もこの先死ぬまで『詰む』事態には何度も遭遇するだろう。その度に嫌になり、もっと上手く行けばなあ、と情けなく思うに決まっている。
でも今まで『詰んだ』と思っても、結局なんとかなってきた。『詰んだ』おかげで幸せな経験もいっぱいさせてもらったし、有難い人の縁も沢山沢山頂いた。
『詰んでいなかった』人生も良かったかもしれないが、『詰んだ』がいっぱいある私の人生がそれに比べて不幸かと言えばそんなことはない。
私は十分幸せである。

あの時もあの時も、『詰んだ』とふてくされて投げ出さなくて良かったと思う。そして投げ出しそうになっていた時に、私の手を取って引っ張り上げてくれる人が沢山居たことに、あらためて感謝の念を強くする。
『詰んだ』時は、次のステージへの大きなジャンプの為に力をためている時なのだろう。悪い時間、意味のない時間、無駄な時間ではない。
少なくとも、今の私はそう感じている。