言い訳
言い訳とは手許の辞書によれば、
『自分のあやまちなどが、やむを得ないことであったと相手に思わせるように理由を説明すること。申しわけ。弁解。弁明。』
とある。(小学館 新選国語辞典 第九版)
『出来ない言い訳をしている暇があったら練習しなさい!』
『言い訳では上手くなりません!』
というのがクラリネットの師匠である、K先生の教えであった。
これを守っているうちに、いつしか普段の生活の中でもこの考え方が染みついて、
『言い訳をしている暇があったら現状を変える為に自ら行動を起こせ』
というのが私の信念みたいなものになった。
三十半ばをとうに過ぎてからスパルタ式でこの教えを叩きこまれ、それまでの自分の心理的な弱さに喝を入れられるのは、当時はかなりきつかった。しかし不満と疑問を持たず、上手くなりたい一心で十年以上ただ粛々と従ってきたら、メンタルが変わってしまったようだ。
自分がそういう考え方になると、周囲の人のちょっとした言い訳に心を乱されることがある。
例えば私の職場の同僚は、殆どの人が皆言い訳をする。
時間が足りなかった、お客様がおかしな方だった、初めて遭遇するケースで戸惑った・・・毎日言い訳花盛り状態である。ベテランでも新人でも、変わらない。内容が高度かどうかだけだ。
そうですか、大変でしたね、と相槌を打ちながら、これを言う事で一体なんになるのだろう、といつも冷めた心で聞いている。性格悪いなあ、と自分で思う。
いかなる時も逃げるな、とは言わない。が、言い訳をしている時間があったら、どうすれば言い訳しなくて済むようになるかを考えて、次こそはそうしなくて良いようにすれば良いだけの話なのに、と思う。
事実は一つしかないので、今思うようにならないことがあるなら、思うようになるように、自分が何かを変えていかねばならない。その義務から逃げる為に、言い訳をするのである。つまりなんの問題解決にもなっていない。現実は何も変わらない。時間の無駄である。
また、言い訳は自分を守っているようで、実は貶めている。
暗に『私はそれが出来ない人間なんです』と至らない自分を認めてしまっている。自分に現状を打破する力があると信じているなら、言い訳をすることはない。
体のいい、周囲と自分への『敗北宣言』である。
私が先生に教えてもらったのは
『自分を早々に諦めるな』
ということだったんだろう、と今にして思う。
究極に自分を信じてやれるのは自分しかいない。言い訳をすると、そこで自分への信頼が断ち切られる。ああ、やっぱり自分は出来ない人間だったのだ、と自分で自分に思い込ませてしまう。自己否定の第一歩を自ら踏み出す訳である。
人生に『慰め』『癒し』が不要だとは絶対に思わない。しかし言い訳は真の『慰め』や『癒し』にはなり得ない。
そこに卑怯な『逃げ』があるからだ。真実と対峙しない弱さを自分に取り込んでしまうことで得られる安息など、まやかしである。
どこか潔い人だなあ、と清々しい思いで見る人は、気が付くと言い訳をしていない。
次からはどうすれば上手くいくか、を常に一生懸命考えている。こうやって日々小さな工夫を重ねていけば、やがて凄いスキルになる。そのスキルは人を強くする。自信になる。
結果として、言い訳をしなかったことにより、その人は成長する。
言い訳をしてその場しのぎの安易な慰めをつまみ食いするか、言い訳をせず冷静に現実を見て、七転八倒しつつも納得できる自分を手に入れるか。
それを選択するのは自分でしかない。
何かが起こった時、反射的に言い訳を思いつくことはある。だけどそれを周囲に垂れ流すのは良くない。
周りの人間に聞く義務と『慰め』る義務が生じてしまうからだ。
そしてそれを聞いた人々にも『言い訳すれば、こうやって手っ取り早く慰めてもらえるんだ』という間違った考えを簡単に植え付けてしまう。
この考えを取得した人がまた言い訳をし、それを聞いた人がまた言い訳をする。
結果、何事も解決せず、不満と自己否定が溢れかえる環境になってしまう。
そんな環境下で、良いことなんて起こりっこない。
言い訳は自分の胸の内でこっそり呟く。でもこってりと練らないことにしている。
私だってたまには言い訳したくなる時もある。我慢は良くないから、心の中で吐き出す。だけど吐き出し終わったら、
『で、これからどうすれば良いかな?』
と静かにゆるゆると頭を切り替える。吐き出して終わり、にはしない。
自分のお世話は自分でしなきゃ。