小銭の惜しさ
小銭を持つことにあまり意味を見出せていない。お札は、お店で現金を求められた時に出すことが多く、基本的に1万円札を持っておけばことが足りる。1000円札も5000円札も重要かと言われればそうでもないが、いつも仕方なく持っている。
たまに現金で支払う必要がある用事があった時、その多くはコンビニでの支払いなのだが、発生した小銭は基本的に全部募金箱にぶち込んでいる。お釣りをもらったら、その流れで募金箱に流し込む。値段に制約は持たせていない。
例えば、1円の支払いでも1000円で支払ったら、発生した999円は全額募金箱行きになる。小銭を持たないと決めてから、このアクションを取り続けているのだけど、やっぱりいまだに 999円と 1円の違いを大きく感じる。物量といい、お金の大きさといい、999円の募金をする時の方が自分の中に抵抗感があるのをひしひしと感じる。
私にとっていらないものが、誰かの役に立つなら再配分される方が良い、というのが基本的な私の考え方であり、私自身納得しているはずなのだが、どうも 999円の方が惜しく感じてしまうのだ。私にとって不要なものと考えると、1円も999円も同等の存在であるのにもかかわらずである。
この感覚のことを金銭感覚と呼ぶのだろうか。生まれてずっと貨幣経済下で生きていて、物の価値を貨幣を媒介にして測るのに慣れすぎているのだろうか。
マーケット全体で見れば、私の貨幣がなくなるわけではない。ゼロサムゲームだ。私の利益がマイナスになり、誰かの利益がプラスになる。さらにいえば、私の満足度は貨幣を持たないことによってプラスになっているはずだ。
もしかすると、この『惜しさ』というのは、自分が金銭的に失った額に対して、自分が受け取る満足度を差し引いたものが感情になったと考えることができるのかもしれない。1円と得られる満足度で比べると、プラス。999円だとマイナス。
そう考えると、私が小銭を持たないことで得ている満足度は、 1円よりは大きく、999円よりは小さい(現時点では)ということになる。
実際のところ、どれくらいなら私は惜しさを感じないんだろう。
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