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確認の手間も、言語化も、わかりあうのにはとても大切なステップ
“時々口にしたり文字にしたりするので山本さんは気づいてるかもしれないが、わたしは「大人」と「責任」を重要な考え方だと思っている。”
気づいてるよ。だって kuroda にとって重要な考え方なんだから。私が理解できているかはわからないけど、尊重はしたいと思ってます。この確認をめんどくさいなんて思ったことは一度もないってことは最初に言っておこうかな。
薄々 kuroda も気づいていると思うが、私と kuroda は考え方がほとんど真逆。私にとっては「子ども」と「権利」のほうが、「大人」と「責任」よりはずっと大切な考え方である。
しかしこれは、単に価値観やイズムの違いであって、私と kuroda の間に、このギャップを埋める動機も、ギャップに橋を渡す理由も特にない。私たちはただ、「ギャップがここにあるよね」ということだけを共有し、「あなたと私は違うんだから、そういうギャップもあってもいいよね」ということを認めることだけをしている。その認知を交換しあって、わかりあい・認め合っている。
わかりあうというと、どうも共感をイメージされることが多いのだが、私が考えるわかりあうは、共感では全くない。認識・理解・リスペクトの話である。異なる個人の気持ちを別の異なる個人がわかる状態を期待していない。誰かの気持ちをわかることができないとは思わないが、求めてもいない。大切なのは、あなたと私の考えが仮に違っていても、優劣に関係なく両者の意見は尊重され、理解される努力がなされるべきだということだ。その意味で kuroda のいう、”めんどくさい確認”は必要なコミュニケーションだと思っているし、そもそもめんどくさいなんて思っていない。手間がかかるのは事実だが、手間がかかることが悪いことであるとは必ずしも言えない。
私たちはシンプルにできてはいない。環境も違えば、時には話す言語が違ったり、信じる考えが違ったりする。同じ国籍だからと言って、前提が成り立つなんてことはない。私には、その人の持つ系譜全てをシンプルに丸め込む勇気はないし、それぞれの歴史を蔑ろにしているみたいで好きではない。
結局何がいいたいかというと、kuroda がこうやって自分の大切にしているものを言語にしてくれることで、私は kuroda の価値観をよりよく理解できる。納得できるかはわからないが、確実に一歩理解は進む。これが何よりも大切である。そして、kuroda も私も納得するやり方で創作活動を進めていくことを考えられる。そんな感じで進んでいけばいいんじゃないかと私は思ってます。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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