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言語の曖昧さへの愛憎

文章を書くときにふと思う。

僕たちは言葉の本当の意味を理解せずに言葉を使うことができるのだなと。

これはいささか便利なものである。

今言ったいささかという言葉だってだいたいこんな感じで使うんだろうみたいな感覚で使っている。正確な意味なんて把握していない。

間違ってたって大体みんなわかってくれる。言語ってそういうものだ。(たまにドヤ顔で本当の意味はこうだよって指摘してくる奴もいるけど)

つまり、僕たちは無意識のうちに意味を共有できる。

英語だとこうはいかない。これはペンですという簡単な文章くらいならサッと出てくるけれども、英検やTOEFLの文章みたいなものになると単語の意味を一つ一つ拾っていかなければならない。

英語の単語を覚えるときは単語帳に載っている英語と日本語を対応させて考える。英語の文章でわからない単語があればそれを調べて覚えるまで何回もそらで案じられるようになるまで書いたり唱えたりする。

でも日本語の文章ではどうだろうか。僕らは頑張って日本語を覚えようとしてきただろうか。難しい四字熟語が出てきたときだってそらで案じれるくらいまで唱えたことはあるだろうか。

学校に通っている頃はそうだったかもしれない。テストに向けてその知識を詰め込んだ。

でも基本的には僕らは勝手に、自然に語彙を増やしている。

日本人は社会人になってから勉強をしないと言われているのに年齢を増すごとに語彙が増えているという結果が示されているのだから多分そうなのだろう。

いささかなんて辞書で引いたことはないけど使い方は大体理解している。

『英語の勉強は英借文だ。英語は僕らにとって母国語じゃない、外国語なんだから人の文章をストックして使うことしか僕たちにはできないのだ。それが正攻法だ。』

なんて多少自虐的な主張を前に本で見たけれど、日本語(母国語)だってそうなんじゃないだろうか。

自分の言葉で語れなんて言葉があるけれどもそう言ってくるやつも大体人の言葉の使い回しで生きてきているはずだ。

特に相手への怒りの表現なんて数知れたものだろう。というか婉曲に怒ってることを伝えてくるやつは大体きもい。小説の主人公でも多分きもい。

結局僕ら一般ピーポーは今まで何遍と使われてきた言葉の使い回しでしか物事を表現できないのである。多少知的に喋ろうとしたってそれは昔の小説の喋り方だったりする。

たまに、新しい言葉の使い回しだったり、表現を考えられる人が小説家として名をなしたりするのであって、言語における一般ピーポーの役割はその表現をパクって使いまくって浸透させることにある。

小さい頃に海外に行くと英語が身につくのはたくさんの雑談を繰り返し聞いたり話したりして、人から文章の使い方を盗んで(借りて)使ってきたからだ。アメリカ生まれアメリカ育ちの子供だって同じことをしてきたのだ。

言語の文法を学べば確かに体系的な喋り方の知識は身につくだろうけど、例外はいろいろある。その例外をアメリカ人達が使いこなせているのは日常の会話で人の喋りを聞いて真似たからだ。

スラングだってみんなで共通のルールを持っていて、『こう喋りましょう、そしたらこういう意味になるわ。』なんて決めたわけじゃないだろう。少し崩れた言葉を使い始める人がいて、みんながそれを真似て勝手に広まって若者言葉だスラングだの呼ばれるようになったのだ。

この広まり方は何かに似ているな。なんだっけ。

やろうと思えば今どきスラングだけで会話だってできてしまうのだろう。

知性のかけらも感じない会話になりそうであるが。

日本語の劣化という問題がある。多分どの言語でもあるんだろう。

それは結局みんなが言語を曖昧な形で使っているからだ。

多分言語とは本来そういうものである。

辞書という意味を固定する、縛るツールはあっても身内で通じてしまえばそれは日本語に内包されるのだ。

だいいちもう確信犯とか破天荒とか正しく使ってる人はマイノリティだし、ら抜き言葉もなんすか?みたいな言葉も基本になってきた。

英語の勉強における言語の捉え方はこんなものでいいんじゃないかと思う。言語は所詮曖昧で移り変わるものだし、意味と英単語を固定されたイメージで使うんじゃなくてぼんやりとしたイメージで持っておいて、それを使う場面に遭遇することを待ち続ける。

本でもいいし、誰かと喋ってもいいし、映画を観てもいいし、そうやって醸成されていくものなのだ。

茂木健一郎もクオリアという彼の専門の研究分野のワードで表現していた。

だから僕は最近流行りのコアイメージでの単語学習というものは素晴らしいなと思っている。意味をたくさん詰め込まなくて良くて自分が楽だという部分も多少あるのだけれども。

大雑把なイメージの中で許容範囲を絞っていったり、ちょっと広げてみたり、仕切りを立てたりしていくのが言語であって、一語一語意味を対応させていく学習は頭を硬くしさえしてしまうし、あいまいだからこその言葉の伸びしろを奪ってしまうんじゃないかと邪推までしてしまう。

もっとみんな言語をもっと気楽に考えよう。言語には正解は多少あれども自分達で変えることのできる部分もあるし、感覚で言葉を発したって相手に大体伝わるんだ。

もっと楽に外国語を勉強しよう。単語帳に齧り付く勉強もいいけど美術館に言って絵を見ながらわからない英語のタイトルの意味を想像するのも楽しい。

もっと書くことを楽に捉えよう。自分オリジナルな文章を編み上げようというような意識を持って苦悩するのではなく、ありきたりな表現でもいいから書いてみるのだ。自分だけの表現なんて追求するから苦しくなる。

言葉は本来面白いはずだ。面白い小説を読む時の興奮を与えてくれるのも、映画や歌なんかの楽しさを与えてくれるのも言葉あってのものだね。

無声映画より音あり映画の方が面白いだろう。第一、アメリカじゃどうか知らないけど日本じゃチャップリンの映画に解説ツキで上映するときた。

みんな言葉が好きなのだ。

言語学習になった途端に嫌いになるのは本来おかしいんじゃないだろうか。

最後にいささかという言葉の使い方があっているかネットで調べてみた。僕が使っていたいささかは現代の使い方であり、かなりという意味で使っていたのだが、本当は少し、いくらかといった意味のようである。badがスラングで最高という意味になったみたいなものか。

あいまいみーまいん

2600文字ちょうど

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