東京は事実上の首都!?なぜ東京が首都と言われるようになったのか?🌈
「日本の首都は、東京」
これは、私たちにとって、ごく当たり前のこと。
「なぜ、首都が東京になったのか?」
これに関しては、あまり知られていない印象です。
実は、「日本の首都が東京」というのは、このように認識されているだけで、法令上、東京は『首都』ではなく『首都圏』。
現行の法令で、『首都』について、直接的な表現を使って定めている法令は存在しないんです。
そもそも、この『東京』という名称。
実は、まだ歴史が浅く、明治以降につくられたもの。
1868年に、当時の天皇が、
「江戸は、東日本で一番の都市であり、四方から物が集まる場所である。自らがその政治を見るべきであり、以後、江戸を東京と呼ぶこととする」
と、宣言されるまで、日本の中心地は『江戸』と呼ばれていました。
しかし、当時すでに千年以上の歴史を誇っていた西の都『京都』。
天皇の命令とはいえ、簡単に、東京(江戸)へ都を移せたわけではありません。
・日本はもちろん、世界で最も治安が良い町
・公衆衛生の面で、非常に清潔な町
こういった条件は、すでに当時の江戸には備わっていました。
また、江戸は、参勤交代(一年おきに地方の大名が江戸に滞在する制度)もあったため、武家の人々が臨時で集まる場所でもありました。
そのため、江戸を中心地にすることで、商売も盛んになり、潤い、国が活気づくと言われていたんです。
しかし、明治に入ると、明治政府内で「大坂(現在の大阪)を首都にすべき」という大坂遷都論が上がり始めます。
この大坂遷都論を最初に提言したのは、『大久保利通』。
大久保利通は、幕末に西郷隆盛と共に明治維新を進めた人物で、明治以降、政府内で実権を握っていた人物。
この大久保の大坂遷都論には、当時、激しい反対意見が上がりました。
そんな中、大久保のもとに、当時まだ幕臣であった前島密から、建白書『江戸遷都論』が届けられます。
建白書とは、政府や上役などに自分の意見を申し立てる書面のこと。
この建白書を受け、大久保も「江戸を中心とする方が良い」と、大坂遷都論を撤回し、江戸を日本の中心地にすることが決まりました。
しかし、依然として遷都に対する反対意見は多く、そのうち、京都と江戸の両方を都とする建白書『東西両都』が出されます。
混乱を抑えつつ、今後は東京と京都を鉄道で連結させるという案でした。
その後、天皇の命令で、江戸の名称が『東京』に改められ、東京への行政機能の移行が進められます。
こうして、遷都というはっきりとした号令は出されないまま、事実上の首都『東京』が実現していきました。
ちなみに、現在の東京都の県庁所在地は、『新宿区』。
新宿区にある東京都庁が、東京都の行政の中心地であるため、新宿区が東京都の県庁所在地となっています。
この決定は、1991年に都庁が千代田区から移転した際に行われました。
東京の急速な成長と人口増加に伴い、
「交通アクセスの良さ」
「経済的に活発なエリア」
「新しい都庁舎を建設するのに適した広い土地」
これらを条件を全て満たしていたため、新宿区が選ばれたようです😌
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