アパ社長はホテル業界のジャンヌ・ダルク🌈
アパホテル株式会社の取締役社長で実業家の元谷芙美子さん。
トレードマークのハットを被り、表に出ることを惜しまないその姿勢は、ホテル業界に衝撃を与えました。
広告やCMで見る「私が社長です。」というお馴染みのフレーズと個性的なファッションで、これまで多くのメディアを席巻してきました。
そんな芙美子さんには、多くの逸話が存在します。
夫である元谷外志雄さんが信開ホテル株式会社(現:アパホテル株式会社)を設立してから、10年後の1990年初頭。
二人にある転機が訪れます。
当時、バブル真っ只中で、日本経済に強烈な追い風が吹き荒れている状況。
そんなある日、芙美子さんは、原因不明の恐怖心に襲われます。その恐怖心が、2週間以上も続いたんです。
そのため、
「全ての株を売却しないと、とんでもないことになる」
こう考えた芙美子さんは、株価が急上昇していたにも関わらず、持ち株をすべて売却してしまいます。
この数週間後に起きたのが、『リーマンショック』。
これによって、日本の株価は大暴落。日本のホテル事業のほとんどが廃業に見舞われます。
そんな中、アパホテルは、間一髪、難を逃れることができたんです。
のちに、日本の土地の価格が大幅に下落したことで、一気に全国展開を進めていくことになります。
このホテル事業を始めてから10年目のタイミングで、芙美子さんは夫から社長を任されます。
芙美子社長は、従業員の前でこう宣言します。
「私は、ホテル業界のジャンヌ・ダルクになります」
当時はまだ、北陸の小さなホテル会社。社長のこの言葉に、会場内は静まりかえったそうです。
しかし、先見の妙を持っていた彼女。
自分の顔を覚えてもらうために、ある戦略に出ます。
現在では、動画配信サービス(YouTubeなど)やSNS(XやInstagramなど)の普及もあり、企業の社長の顔が私たちにも見える形となっていますが、当時は、消費者に見せないのが主流でした。
そんな当時の風潮を変えたのが、芙美子社長。
ホテルの看板に自分の顔写真を載せ、さらに、日経新聞の一面に「私が社長です。」という広告を掲載したんです。
すると、「公共の福祉に反する」とクレームが殺到し、嫌がらせの手紙が、全国から押し寄せる事態となります。
しかし、これも彼女の戦略の一端に過ぎませんでした。
世間に認知してもらうためには、悪口や批判が最も効果的であることを知っていたんです。
「私に会えば、必ず気に入ってもらえる」
この心構えで、全ての手紙に目を通すだけでなく、直筆で一枚一枚を寝る間を惜しんで、このように返事を書き、割引券を同封して、手紙を送ったそうです。
「ご意見ありがとうございます。よろしければ、ぜひ私に会いに来てください。来ていただければ、きっと好きになっていただけると思います」
社長の熱意が通じ、批判していた人たちが、徐々にホテルに足を運ぶようになります。
次第に、ホテルの行き届いたサービスに感動した人たちから、感謝の手紙が送られるようになり、嫌がらせの手紙は来なくなったそうです。
そして、記憶に新しいのが、コロナ禍でホテル業界が大打撃を受ける中、『黒字経営』を続けられた、芙美子社長の経営戦略。
コロナのパンデミックによって、日本のホテル業界は衰退を余儀なくされました。
そんな中、2020年4月、芙美子社長は政府に対して、新型コロナウイルス感染者のうち、軽症者や無症状者受け入れの打診に全面的に応じる旨を伝えたと発表したんです。
「これから、感染者の療養施設として運営いたします。従業員の皆さんにも大切な家族がいらっしゃいます。出社は自己判断で構いません」
従業員にこのように伝え、
・休んでも出勤扱い
・査定にも響かない
など、本人たちに出社の是非を委ねました。
すると、9割以上の従業員が出勤すると申し出たそうです。
そして、1室2,000~3,000円台の低価格で客室を売り出すキャンペーンや、感染者の療養施設・外国からの帰国者の隔離施設として一棟貸しを積極的に行い、社会貢献を社員一丸となって行ったんです。
命懸けの経営戦略と持ち前のリーダーシップを発揮し、有言実行されていく芙美子社長の姿は、まさにジャンヌ・ダルクそのものでした。
アパホテル株式会社は、日本だけではなくニューヨークやバンクーバーなど、全世界に779ものホテルを展開し、成長の勢いは留まるところを知りません。
2015年には、日本国外におけるアパホテル第1号施設として、アメリカ・ニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港付近に『アパホテル ウッドブリッジ』をオープン。
外資系グループが営むホテルが多い中、日本を代表するアパホテルが世界へと進出し、今日も人々の疲れを癒やしています😌
最後まで読んでいただきありがとうございました🌈