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大量の銅剣と謎の刻印!祭具が出雲の歴史を塗り替えようとしている🌈

今から1800年前に建てられた『出雲大社』。

日本最古の歴史書『古事記』にも登場する歴史のある神社で、主祭神は大国様としてお馴染みの『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』。

そんな出雲大社のある出雲は、昔からこのように言われてきました。

「神話はあっても歴史がない」

しかし、近年、新たな発見によって、この考えが変わろうとしています。


出雲といえば、出雲大社をはじめとする、古代出雲王国の痕跡。

その中でも、出雲市斐川町にある『荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)』は、古代出雲の謎を紐解く重要な古代遺産。

この遺跡が発見されるきっかけとなったのは、1983年に計画された、斐川町に農道を設置する建設工事。

その事前調査で、須恵器の小さな欠片が発見されたことから、翌年、本格的な遺跡調査が行われました。

<須恵器(すえき)とは?>
古墳時代から平安時代にかけて、日本で生産された土器(炻器)。
須恵器の製作技術(ろくろを用いて形を作り、窯で焼く技術)の発祥は、日本ではなく、朝鮮半島から伝来したもの。

その結果、合わせて358本の大量の『銅剣』が、丁寧に埋納された状態で発見されたんです。

<銅剣(どうけん)とは?>
青銅でつくられた剣。
弥生時代に、他の青銅製の武器とともに中国から伝来したもの。
伝来時は、細身で鋭い形をしていたが、年代が進むに連れて大型化。細身だった頃は武器として使用され、大型化した後は、儀礼・祭祀用の祭器として使われた。

それまで数本ずつしか発見されていなかった『銅剣』。

その数、全国で延べ300本。

それを上回る数の銅剣が一か所から発見されたんです。

さらに地中探査を行った結果、銅剣が出土した場所からわずか7メートルのところで、16本の『銅矛(どうほこ)』と6個の『銅鐸(どうたく)』も発見されました。

これらも、銅剣と同様、丁寧に埋納された状態で発見されています。

その後行われた詳しい調査で、出土した銅剣のうち、344本にバツ印が刻印されていることが判明(どのような意図で刻まれたものかは、未だに解明されていない)。

また、埋納されていた土地は、きれいに整地されており、丁寧に並べて埋納されていたことも明らかになりました。

埋納時に儀式が行われた形跡も見られたそうです。


古代から出雲には、

「全国の神々は、毎年出雲に集まって会議をしている」

という言い伝えがあります。


もしかすると、弥生時代の半ば頃から、各村の首長が『銅剣』『銅矛』『銅鐸』を持ち寄って、何かしらの会議を行っていたのかもしれません。 

これらの祭具を埋めて、二度と取り出さなかったということは、それまでに『祭祀(さいし)』を終了したということなのでしょうか?

祭祀を終了したということは、

「それまで大切に敬ってきた神そのものが入れ替わった」

もしくは、

「その土地の風習や歴史を隠す必要があった」

このいずれかになります。

さらに、これは、弥生時代の半ばの出来事。

卑弥呼登場の遥か以前に、この埋納が行われていたことになります。

弥生時代は、『邪馬台国』や『卑弥呼』の時代が強調されがちですが、これらは、弥生時代のほぼ終末期。

数百年もしくは1000年前後続いていたとされる弥生時代には、もっと注目されるべき事件や政変があったということです。


紀元前1世紀から紀元前4世紀半ばまで、出雲は、交易拠点の一つでした。

時代とともに隠されてきた出雲の歴史が、今後、様々な調査によって明らかになるのかもしれませんね😌

最後まで読んでいただきありがとうございました🌈
 

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