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「優しい人」になるには

久々の投稿になります。

普段行っていたタロットの情報の掲載は最近モチベーションがないのでしばらく休んでしまっています。申し訳ありません。

今回の内容は、完全に私の「ぼやき」です。それでもよければ見ていってください。

「優しい人」って何?

好きな異性のタイプの代表格として、「優しい人」が挙げられますよね。

優しい人ってなんでしょうか。

非打算的、無償の愛、奉仕精神、厳格でない

とか、ざっくりそんな感じでしょうか。

いや、何か足りないですね

そう、主語ですね。矢印の先にある、主語が足りません。

みんなに対して非打算的、分け隔てない無償の愛、社会全体への奉仕精神、誰に対しても厳格でない

多分優しい人ってこんな感じですね。

………これってモテるんでしょうか。

違いますよね?

結局、「自分に優しい人」ですよね?皆さんが求めているのは?

私は、この主語を省きまくる日本語の文化が大嫌いです。

ちょっとした過不足が、「優しい人」というゾンビを作り上げている

先ほど記述した、

みんなに対して非打算的、分け隔てない無償の愛、社会全体への奉仕精神、誰に対しても厳格でない

は、ぶっちゃけ最悪な状態です。

私は、常々、人に時間を貸せと求めるものがおり、求められる方もいとも簡単に貸し与えてやるものがいるのを見て、驚きの念を禁じえない。時間が求められた目的はどちらの眼中にもある。だが、時間そのものは、どちらの眼中にもない。まるで求められたものは無であり、与えられたものも無であるかのようである。

 「生の短さについて」セネカ著 大西英文訳

時間という、ものすごく重要な資産、財産が見えていないわけです。

見えていても、その価値に根本的に気がついていない。

つまり、優しい人というのは、究極いうと、

「誰であろうと同じ命のためなら、自分の命も賭けられる」

という人なのです。

大袈裟かもしれませんが、でも実際やっているのはそうゆうことです。

もし、「優しい人」でありたいと思う人がこの記事を見ているのなら、そんな思考はさっさと捨てることを推奨します。

私からしてみれば、優しい人という鋳型にはまりにいく人間は、ゾンビでしかないです。

そもそも、「優しい人」という概念は、あなたの内側から発せられた言葉なのかもう一度心に問いただしてください。

私の経験上、一般的な会話のシーンの中の、ちょっとした過不足が、「優しい人」というゾンビを作り上げている場合がほとんどです。

人は騙せても、自分は騙せません。人は、自然体で生きなければいつか病んでしまいます。

本当にあなたは「優しい人」になるべきなのか、考えて欲しいです。

本当に優しい(都合がいい)人は、人に興味がない

気配りするのだから、人のことを常に考えないといけないと思ってしまいがちですが、意外と真に優しい人というのは、

世間に興味がなく、適度に周囲が見えている人

でしかないです。無頓着だから、なんでも許せるし、自分にしか興味がないから、他人は自己成長のための道具のような位置付けにしています。

優しい人の実態というのは、グループの中でも、あえて孤立を選んでそうな、独特の空気感を纏っている人である場合が多いです。

もしかしたら皆さんの身の回りに心当たりがあったりして……

まとめは、

優しい人はいないと思った方がいいし、無理に優しい人になろうとするもんじゃない。

以上!




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