見出し画像

近くて遠いアメリカ(2)

ここ数年、とある情報誌の取材で、東京の立川周辺に数えきれないほど足を運んだ。昭和記念公園がかつて米軍基地だった頃の話や、玉川上水駅近くにも基地があった話を聴いた。当時は基地で働く日本人も大勢いて、話をしてくれた中華料理店のご主人も若い時分に基地内のレストランで料理の修行をしたらしい。床屋の店主のお父様は、米兵の髪を切るために基地に通っていたという。彼らにとってはアメリカは目と鼻の先だったのだ。

立川市のとなり福生市には、今もなお現役の横田基地がある。この「福生」という地名が、ぼくにとって特別な意味を持つ時期があった。それは、かつて日本がバブル景気の熱気の中にあった時代。地方の大学生だったぼくも、その浮かれたあぶくの中でフワフワしていた。肩幅が歩いているみたいなデザインのスーツを着て、姉からのおさがりの車に乗って、夜はディスコで前髪を立ち上げた女と遊んだ。トレンディドラマの世界をなぞることに必死で、バカらしくて、空虚な日々だった。

その頃、貪るように読んでいたのが、村上龍と山田詠美の小説。空虚な日々を掃き捨てるように過ごすぼくにとって、この二人が紡ぐ言葉が、ある意味で重しのような存在になっていた。そんな二人の作品に共通するのが、米軍であり、福生という街だった。いつしかぼくは、遠く知らないこの街に、熟れすぎた果実のような、濃密でだらしない甘さを想像して、ある種の憧れのようなものを抱くようになっていた。

「限りなく透明に近いブルー」「海の向こうで戦争が始まる」「コインロッカーベイビーズ」「だいじょうぶマイ・フレンド」これらの村上龍作品をひとまとめに語れるものではないが、当時のぼくは、もっとまともで強い意思を持った男になりたくて、その答えをこの本たちの中に探していた。その一方で、いい男になるための教科書として読んだのが、山田詠美の小説だ。「ベッドタイムアイズ」「ジェシーの背骨」「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」彼女の小説のなかに出てくる男は、いい男すぎたし、簡単に真似できるようなものではなかったが、それでも、少しは影響を受けていたのだと思う。二人の作家の教えが、ぼくの一部分になっていたのは間違いないと思う。そう思えるほどにぼくは二人の小説のほとんど全てを読んでいた。

それからしばらくして、ぼくは大学をやめて上京し、さらにそれから数年後、六本木のデザイン事務所に勤めはじめた。その頃、ぼくはある女性と知り合った。そのひとは米軍基地のそばに住んでいて、いつも黒人のボーイフレンドと一緒にいるような女の人だった。ある時、彼女に「あんた普通の日本人の男とは違うね」と言われて部屋に誘われた。六本木から彼女の部屋までは、かなりの距離を電車で移動することになったのだが、途中、京急線に乗り換えたあたりから、何人もの黒人男性が彼女に声をかけてくる。その度に彼女は「今夜のステディは彼なの」とぼくを指差す。英語だったから本当はどんな会話だったのかは分からないが、彼らは皆、目を丸くして、なんでこんなちんちくりんが? と言いたげな顔でぼくを見ていた。

実際のところ、彼女がぼくのどこを気に入ったのかまったく分からないが、ぼくは少しだけ誇らしい気持ちになれた。二人の先生に教わってきたことが実を結んだようにも思えた。その後も、彼女からは何度か誘われて会っていたけど、そのうち、ぼくをもっと自分好みの男にしようと、服を買ってくれたり、スラングまじりの英語を教えようとするので、なんだかわずらわしくなってきて、ぼくは彼女を避けるようになった。

彼女に会わなくなったあとも、ぼくはブラックミュージックしか聴かなかったし、二人でよく観たスパイク・リーの映画は、何度も繰り返し観た。ただ、彼女にもらったティンバーランドのイエローブーツはもう履くことはなかったし、日焼けサロンに通うのもやめた。こんがり焼いたぼくの体が、元の肌色に戻る頃には、村上龍も山田詠美もすっかり読まなくなっていた。

いいなと思ったら応援しよう!