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近くて遠いアメリカ(1)
「アメリカングラフィティ」という映画がある。ぼくが高校生の頃、テレビで放送されたものをVHSのビデオテープに録画して何度も観た映画だ。サントラ盤をカセットテープにダビングして聴きまくった。歌詞カードなんかなかったから、どの曲も正しい英語の発音を覚えるより先に、耳コピだけのむちゃくちゃな英語で口ずさんでいた。ハイスクールを卒業して都会に旅立つ若者が、その土地で過ごす最後の夜の物語。ぼくはその若者たちの気持ちになってみたかった。あの頃ぼくは、アメリカをとても近くに感じていたような気がする。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのもこの頃だった。セントラルパークでのアイススケートの場面を読んで、街の公園でアイススケートができるとは、ニューヨークという街はなんて素敵なところなんだと思った。ホールデン・コールフィールドはぼく自身だった。アメリカの古い小説にぼくのことが書いてあることに驚いた。言葉にできない感情ばかりが次から次に押し寄せてくる、そんな日々に17歳のぼくは苛立っていた。サリンジャーの物語の中にその苛立ちに似たものを見つけてうれしくなった。
そして、そのあとも「フラニーとゾーイー」「ナインストーリーズ」と、サリンジャーを読みつづけた。ひとりの作家の作品を何冊もつづけて読んだのは、サリンジャーがはじめてだった。知らず知らずのうちに、読書の面白さを知り、海外文学の魅力に触れ、宗教感のわからなさに戸惑いながらも、本の中のアメリカの若者たちと自分を重ね合わせていたのだと思う。
その頃のぼくは、下校したあと学生服を脱いで私服に着替え、映画や小説で見た、あのアメリカの若者になったつもりで街へ出る。ドーナツを食べて、古着屋でアメリカの匂いを感じ、輸入雑貨の店でアメリカの文房具に触れる。それだけでよかった。それがぼくのアメリカだった。本当のアメリカに行きたいとはなぜか思わなかった。
テレビで観た「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に熱狂したのもその頃だ。映画の中では主人公のマーティが50年代のアメリカと現代(80年代)のアメリカを行き来する。当時のほくにしてみれば奇跡のような映画だ。ナイキを履いてスケボーで通学する主人公のマーティより、コカ・コーラを栓抜きを使って開ける1955年の若者たちに共感したように思う。
アメリカへの憧れは、それから半年くらい続いたが、トムクルーズが戦闘機に乗る映画やビリヤードをする映画が、街の映画館で上映されはじめた頃には、ぼくの中のアメリカへの憧れもかたちを変えていったように思う。そして高校を卒業する頃、少し大人になったぼくは、常磐新平の「遠いアメリカ」と、ジェイ・マキナニーの「ブライツ・ライツ・ビッグシティ」を読んでいた。