人間の生き方 フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853―1890)は、ポスト印象派の画家である。オランダ南部のフロート・ズンデルトに、牧師の息子として生まれる。
1869年に、グーピル画廊ハーグ支店に就職する。76年に解雇されて、教師、書店員と職を転々とする。
1877年に牧師を志すも、神学部の受験に挫折する。1878年に、ベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に入学して、ボリナージュの炭坑町で伝道活動を始める。
1880年に画家となることを決意して、オランダに帰郷する。1881から1885年に、《ジャガイモを食べる人々》(1885)などの、農民の暮らしを描いた修行期間を経て、86年パリに渡る。
フェルナン・コルモンの画塾に通ったゴッホは、アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックやポール・ゴーギャンらと出会い、また、印象派から台頭し始めたジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった、新印象派の作品に触れる。
当時流行していた日本趣味にも関心を寄せて、浮世絵版画を収集。歌川広重の《亀戸梅屋舗》(1857)や、渓斎英泉の《雲龍打掛の花魁》(1830-44)などを模写したほかに、1887年には、カフェ「ル・タンブラン」で浮世絵展を開いた。
この頃に知り合った、絵具屋のジュリアン・ペレ・タンギーをモデルとした《タンギー爺さんの肖像》(1887)の背景にも、浮世絵が描き込まれている。
1888年に、静養のため日本の風景に似た南フランス・アルルへ移住する。芸術家たちとの共同アトリエ「黄色い家」を借りて、唯一賛同したゴーギャンとの生活を送る。
ゴッホはこの地で、鮮やかな色彩と力強い筆致、アドルフ・モンティセリに影響が見られる厚塗りによる手法を確立して、《ひまわり》《夜のカフェテラス》《種まく人》(いずれも1888)などの代表作を生み出した。
しかし、ゴーギャンとの口論の末に、ゴッホが自ら耳の一部を切り落とす事件を引き起こして、短い共同生活が終わる。
1889年に、サン・レミの精神病療養所に入院する。発作を患いながらも、《星月夜》(1889)などを手がけ、この頃から、作品内に渦を巻く描写が見られるようになる。
1890年5月に、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズを、次の静養地に選んで移住する。
療養の傍ら制作を続けたが、同年7月27日にピストルで自殺を図ったとみられて、その2日後に、自身の画業を支えてきた弟のテオに看取られて死去した。
ゴッホ(1853年―1890年)は、オランダのポスト印象派の画家である。感情の率直な表現と、大胆な色使いなど、20世紀の美術に影響を及ぼした。生涯独身で、自身を燃焼しつくすまで描き続けた。
人間の生き方について彼は語っている
「このまま行けと、僕の中の僕が命じるんだ」
さらに彼はこういう。
「何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう」