福元早夫(作家)
人間の生き方とは何か、それには正解がない。百色百通りの生き方がある。生きている間に人生に迷うことがある。人生の岐路に立つこともある。 生きることとは何か、迷った時は偉人達の言葉を参考にしながら前に進んでいきたい。
自然と共存しながら生きていく、季節は変わりゆく、変わりゆく季節の中で自然は、様々な表情を変えていく、自然と向き合う中で通じる食と向き合うことで、人間のエネルギーに変えていく。
同人誌Amazon 1982年7月号(227号)より 1982年3月25日木曜日誕生 ちょうど正午ごろだった。 入院している妻の病院から電話があって、11時5分に、元気な女の赤ちゃんがお生まれになりました、と告げてきた。 私たちにとって四人目の新しい命の誕生である。 私は昨日からの、張り詰めていた精神の緊張が、心地よく和んでいく快感を味わいながら、電話の女の声に礼を言い、 面会時間の三時過ぎにそちらへ伺わせていただきます、と言って再び礼を言った。 昨日、妻は病
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853―1890)は、ポスト印象派の画家である。オランダ南部のフロート・ズンデルトに、牧師の息子として生まれる。 1869年に、グーピル画廊ハーグ支店に就職する。76年に解雇されて、教師、書店員と職を転々とする。 1877年に牧師を志すも、神学部の受験に挫折する。1878年に、ベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に入学して、ボリナージュの炭坑町で伝道活動を始める。 1880年に画家となることを決意して、オランダに帰郷する。188
パブロ・ピカソ(1881―1973)は、スペインのマラガ生まれで、幼少期から絵の才能を発揮していた。11歳で、ラ・コルーニャの美術学校へ特別に入学した。 バルセロナ美術工芸展に、《初聖体拝領》(1896)を出展して、14歳で画家としての活動を開始する。 1904年に、フランス・パリに移住する。ポール・セザンヌ、トゥールーズ=ロートレックなど多くの画家から、芸術様式を吸収して、作風を次々と変化させる。 活動の初期の画業は、友人の自殺をきっかけに、貧困や生と死を主題
ココ・シャネル(1883年―1971年)は、フランスのファッションデザイナーで、企業家である。 彼女が創設したシャネルブランドは、世界有数のファッションブランドとして、現在も営業をしている。 20世紀初頭から、ファッションデザイナーとして活躍して、一時的な活動停止を経て、その死に至るまで、世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた。 戦争の期間における彼女のデザインは、女性の社会進出が進んでいた当時の世相と適合して、世界のファッションスタイルに大きな影響を与
岡本太郎(1911―1996)は、芸術家である。東京生れで、岡本一平とかの子の長男である。東京美術学校に入学するが、父母の渡欧に同行して、1930(昭和5)年から、フランスのパリに住む。 数々の芸術運動に参加しつつ、パリ大学で哲学・社会学・民族学を専攻、バタイユらと親交を深める。 帰国して、兵役・復員後に、創作活動を再開する、現代芸術の旗手として次々と話題作を発表した。 1970年の大阪万博テーマ館もプロデュース。一方で、旺盛な文筆活動も続けた。 岡本太郎(お
三島由紀夫(1925―1970)は東京生れで、本名が、平岡公威(きみたけ)である。 1947(昭和22)年に、東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職して、執筆生活に入る。 1949年に、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行して、作家としての地位を確立する。 主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等がある。 1970年11月25日に、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」
ミゲル・デ・セルバンテス(1547年―1616年)は,17世紀初めに活躍したスペインの作家である。 セルバンテスは,スペインの黄金時代の16世紀半ばに,マドリード近郊で、貧しい外科医の子として生まれた。 少年時代は父についてスペイン各地を転々として,正規の教育は受けられなかったが,文学に強い興味を示して、読書を好んだという。 十代の後半からは、ある人文主義者に師事して学び,1569年には枢機卿の従者としてローマを訪れる機会を得て,そこでルネサンスの文芸作品に触れ
バルザック(1799年―1850年)は、19世紀のフランスを代表する小説家である。ド・バルザックの「ド」は、貴族を気取った自称である。 イギリスの作家サマセット・モームは、『世界の十大小説』のなかで、バルザックを「確実に天才とよぶにふさわしい人物」と述べている。 バルザックは、90篇の長編や短編からなる小説群、『人間喜劇』を執筆した。 これは19世紀のロシア文学(ドストエフスキー、トルストイ)のさきがけとなった、写実的小説群である。 『レ・ミゼラブル』で著名なヴィ
ツルゲーネフ(1818―1883)は、ロシア中部の大地主の家に生れて、母の領地であるスパスコエ・ルトビーノボ村で育った。 モスクワ大学、ペテルブルグ大学に学び、ベルリン大学に留学する。 1843年に発表した長詩『パラーシャ』が激賞されて、農奴体制下の農民の生活を描いた短編集『猟人日記』(1847-1852)で、不動の名声を得る。 明治期の日本にも、いち早く紹介されて、近代日本文学に大きな影響を与えた。 ツルゲーネフ(1818年―1883年)は、フョードル・ドス
ジョージ・エリオット(1819年―1880年)は、イギリスの作家である。本名はメアリー・アン・エヴァンズ(マリアンないしメアリ・アンとも)である。 ヴィクトリア朝を代表する作家の一人で、心理的洞察と写実性に優れた作品を発表した。 『アダム・ビード』『サイラス・マーナー』『ミドルマーチ』などの作品で知られている。 特に『ミドルマーチ』は、後世のヴァージニア・ウルフによって賞賛されて、マーティン・エイミスやジュリアン・バーンズによって、英語で書かれた最高の小説のひとつに数
ルイス・キャロル(1832年―1898年)は、イギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人である。 本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン で、作家として活動する時に、ルイス・キャロルのペンネームを用いた。 作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常によく知られている。 「かばん語」として知られる複数の語からなる造語など、様々な実験的手法で注目されている。 数学者としては、チャールズ・ドジソン名義で著作を出している。 キャロ
チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(1812年―1870年)は、ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの小説家である。 主に下層階級を主人公として、弱者の視点で社会を諷刺した作品を発表した。 新聞記者を務めるかたわらに発表した作品集、『ボズのスケッチ集』から世にでる。 英国の国民作家とも評されていて、1992年から2003年まで用いられた10UKポンド紙幣に肖像画が描かれている。 英語圏では、彼の本と、そして、彼によって創造された登場人物が、根強い人気を持っ
ヘルマン・ヘッセ(1877年 ―1962年)は、ドイツの抒情詩人で、小説家である。 南ドイツの、カルプの牧師の家庭に生れて、神学校に進むが、「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と脱走する。 職を転々とした後に、書店員となった。1904年の、『郷愁』の成功で作家生活に入る。 第一次、二次両大戦の時には、非戦論者として苦境に立った。だが、スイス国籍を得て在住する。 彼は、人間の精神の幸福を問う作品を著し続けた。1946年ノーベル文学賞受賞する。 ヘル
吉川 英治(よしかわ えいじ・1892年―1962年)は、日本の小説家で、現在の神奈川県横浜市中区出身である。 様々な職についたのちに、作家活動に入って、『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年(昭和10年)から連載が始まった『宮本武蔵』は、多くの読者を獲得して、大衆小説の代表的な作品となった。 戦後は、『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆した。幅広い読者層に親しまれて、「国民文学作家」と呼ばれた。宝塚市千種の、地名の名付け親である。 吉川英治(1
ダンテ(1265―1321は、イタリアの都市国家フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家である。 『神曲』を、トスカナ語の口語で著作して、ルネサンスのはじまりとなる。 少年時代に出会ったベアトリーチェという少女に、恋をしたが破れて、その気持ちを唱ったのが、第1作の『新生』である。 その後は、詩人として歩み、若い詩人グループ「清新体派」をつくった。さらにその後に、詩人として活躍しながら、フィレンツェの政争に巻き込まれた。 晩年はラヴェンナに移って、その地で14世紀初
マヤ・アンジェロウ(1928年―2014年)は、アメリカの人権活動家、作家、詩人、歌手、女優である。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと、公民権運動に参加した。 彼女は、両親の離婚後に、3歳で祖母に引き取られる。母親の恋人に性的虐待を受けたのは、8歳のときである。 男はすぐに釈放されたが、それに怒った人たちによって殺害された。「自分が犯人の名前を告げたせいだ」とショックを受けたマヤは、もう言葉は発しないと決意する。 以後、約5年間しゃべらなかった。それでも祖母