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【終「先生、バスケのできなかった検体がどうしても言いたいことがあるらしいですよ」】独り言多めの映画感想文(井上雄彦さん『THE FIRST SLAMDUNK』)
ひろゆきが著書『99%はバイアス』にて「自分がYouTubeに上げた動画の切り抜き作品を作る人」について言及していた。彼らのことを「切り抜き師」と呼び、〈「それってパクリじゃん」〉な作品群を〈「こうすればもっと上手くいく」〉という「改善」として〈僕もこの恩恵を受けている〉としている。
私自身、元々啓発本と名のつくものが苦手で、活字不足に枯渇する心を手軽に潤そうとした結果、酒の如くかえって喉が渇くというのが常だった。この本も「時代の波に乗っとくか」ではなく、ほぼ考えなしに手に取った。やっぱり喉は潤わなかった。それでも思い返せば著者の動画をしばらく見ていた時期があった。その多く、いやほとんど全てが「切り抜き師」による作品だった気がする。
例えるならジャンクフード。手っ取り早く腹を満たすように流していたもの。ジャンクフードというよりはファストフードか。コスパ至上主義な現代に綺麗にフィットし、「それ」は瞬く間に成果を上げた。
何気なく話している中で、ある日旦那に「言葉のペテン師」と言われた。限定することで、かえって言葉に関してはスペシャリストみたいなニュアンスになってしまうと困るので、単なる「ペテン師」として受け取るが、そう聞いた時、この人は私のことをよく分かっていると思った。
先にあげたひろゆきの著書の中で〈「自分のことは、結局のところ、自分ではわからない」〉とも言っていた。考えてみれば鏡なしに自分を見られない以上、その鏡を「絶対確かなもの」として信じることしかできない以上、誰も自分のことを本当にわかることなんてできるはずがない。
外から見た自分。しっかりしているように見せて、カッコつけで、でも本当はそんなことなくて。私は一般人に過ぎないが「ないものをあるように見せる、夢を見せる才能」だけは歪に特化していると思っている(当人比)
本物の中に混ぜた虚構。それは大事な人をもってきちんと見抜かれていた。
さて、毎度長くなってしまったが、今回全てのタグに「バイアス過多」をつけた。それは「あくまでこれはスラムダンク本作を養分として生まれた別個体」であり、元々本作読者であれば問題ないのだが、仮に違うとしたら、その人にとってひどく有害だから。ここに記したものはあくまで一検体の読み方であり、独り言と称して事実と脚色を8:2でブレンドして作り上げたもの。
私はペテン師だ。ひろゆきは二次創作を作る「職人」を「切り抜き師」と言った。「師」には「先生」という意味がある。そこにはわずかなりとも敬意が込められている。
それに恥じぬよう、私は束の間夢を見せる。だから逆に読み手側がここだけで完結してしまうと大事なものを違える。それだけはどうしても言っておきたかった。
根拠のない自信と修正する力。
内に秘めた熱と聞く力。
無償の愛と信じる力。
己が正義と守る力。
強がってもいい、それを本物に変える力。
これらは言った通りバスケにだけ、この作品にだけ終始するものではない。けれどこの作品を通じることで、上記たった数文字の言葉が厚みを得る。心が潤う。これが物語の力だ。
書いていて楽しかった。
THE FIRST SLAMDUNK。
「まず」バスケから。私は今そのフロアに立つことはないけれど、間違いなくここから始まって今がある。
「好きになること」ただその贅沢を教えてくれたこの作品に、心から感謝する。