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大丈夫だよシダーウッド


「ウチに来ませんか?」と聞いたのは背中越しだった。笑ってしまう。「非力に何をさせる気ですか」と返すと「大丈夫ですよ、イチから教えるんで」と言われたが、たぶんそういう問題ではない。
 

「シダーウッドです」
 山田さんが差し出すアロマに顔を近づける。なるほど、シダーなウッドの香りがする。
「迷いによる脳疲労を労り、決断力を高めてくれます」
 ドキリとする。ローズマリーとクラリセイジを添えるとその腰を上げる。後に続いて階段を上がると、間接照明越しに3階に続く階段が見えた。

 
「波を起こしたんですね」
 そう言う同い年の整体師は、何故かうれしそうだった。
「波を立てる」ではなく「波を起こす」。選ぶ単語によって微妙に、でも確実に変わるニュアンス。それだけで男がどう捉えたか分かるようだった。「空気読めないだけですよ」と返答する。
「だって普通聞けないじゃないですか。僕はそうやって言ってくれた方がうれしい」
 経営者側の視点。根付くパワーバランスに、無意識のソーシャルディスタンス。「言ってくれればいいのに」としたところで、日頃から察するベースのコミュニケーションの中で生きる女性が、そう簡単に言えるものではない。だから代わりに物を言うのは日頃の関係。思わず笑ってしまう。
「何言ってるんですか。山田さんが2人になるんですよ?」
 ハタ、と手を止めた男は、「ああそうか」とすぐさま冷静になる。
 しかしそのことは、異業種から引っ張ることを厭わないくらい、そのくらい現場の声に重きを置く人がいるということ。変えようと変えまいと、基本聞いた限りは何らかの対応を求められる。その煩わしさを、煩わしさに分類しないというだけで、管理側の人間だと分かる。
 ありがてえ、と勝手に思う。
 



 
 美容院に行くとスラムダンクの話になった。大人になって読み返すと、当時見えなかったものが見えるようになると話をすると、男は「例えば?」と話を振った。
 
「ミッチー。バスケが好きすぎてぶち壊したくなっちゃう感じ。入って5割な3Pを、だから味方のサポートがなきゃ使えない武器を手に、最後まで戦うの。だって昔はエースで、別に武器は3Pだけじゃないはずなのに」
 
 あえて頼ることを、味方を信じることを選んだ。その価値は当時の私には分かりっこなかった。
 気づくと男が手を止めていた。「ああそっか」と一人ごちる。スツールに腰掛けた、その膝の上でハサミが反射した。
 音が止む。不思議な時間が流れる。少しすると思い出したように再びハサミを持ち上げた。
 
「いや、そこまで話していいんだって思って」
 
 シャキ、という音が途切れ途切れになる。〈手を止めている間、この話の要領は男の7割を超えているということ〉。だから低速のそれはNow Loading。重い容量の処理に時間を食っているということ。〈例えば?〉その一言で男は「深さ」を測った。回答によって自分の話す内容に調整をかけようとしたのだろう。かろうじて仕事中であることを忘れずにいる腕。
 
「……僕はフクちゃんが好きです。こう言うと『何でフクちゃん?』って笑われるんですけど、一人で一生懸命練習してるじゃないですか」
 
 好きだからこそのマニアックとして捉えられたのかもしれない。『何でフクちゃん』なのか、聞こうとする人がいなかった。いつだったか男が「お金がなかったので、カットの練習ばかりしていました」と言っていたのを思い出す。
 
「当時ゴールなんて親にねだれるようなものじゃなかったじゃないですか。だからあの、〈そこには空しかなかった〉っていうの、」
 
 そこまで言って言葉に詰まった。その瞬間、私まで「あ、ヤベエ」と思った。
 
 テニスIQと言ったな。そこにはきっと、星の数ほど「〇〇IQ」というのがあって、男にとってのバスケと私にとってのバスケは、IQで測ったらとても20以内に収まるとは思えない。けれど、
 深度、愛情度。それさえ近ければ通じることができる。逆に深度が20以上離れたら、同じ競技だとしても無理だ。共通する、例えば真理。深度さえ近ければ、それぞれが己にとっての「〇〇IQ」に変換して通じることができる。
 
 こういう時に限って他にお客さんがいる。好きなことについて話す時、自然と声が大きくなる。だからうるさいと思った奴らが急に言葉に詰まって黙り込んだら、むしろ周りの人たちの方がザワつく。ハタ迷惑以外何ものでもない。
 目元を拭うと、鏡越し、視界の端にアシスタントの男の子が映った。空気が読めると思っていた子は、今回は控え室に下がることなくそこに居続けた。見過ぎだ。自分も話したいことがあるというのはよく分かった。選考基準の一つに入っているのかと思うくらい、ここのスタッフは全員バスケ好きだ。
 
 好きは無条件。故に好きは無敵。
 ありとあらゆる条件を揃えたとて、よっぽどでなければ好きを前に弾かれる。
 じゃあ何をもって好きとするか、起点こそ分かっても、その根拠、内実は実のところ不明瞭。言語化するとかえって遠ざかる案件。



 
 
 整体の90分が終わる。「ヘッドスパなんて入ってましたっけ?」と聞くと、「90分内ならどう使おうと僕の勝手です」として「頭硬そうだったんで」と返ってくる。
 
「私、頭硬そうに見えます?」
「はい」
 
 誰がどう見てもそうでしょうというような言い方だった。礼を言って自動ドアをくぐる。冷たい風が正面から吹きつけるのを、目を閉じて堪えると、運転席に乗り込む。
 
「波を起こす」か。
 いい表現だと思った。

 
〈ウチに来ませんか?〉


 
 ありがたいことに全く心が動かなかった。そのことを幸せに思う。
 実際使えようと使えまいと、自分、バスケットマンですから。
 
 
 






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