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非強制ラベンダー【後編】



「痛いッ」

 思わず声が出た。同時に男の口から漏れたのは、舌打ちが聞こえてきそうな声。
「何だコレ。山田は足やんなかったの?」
 左足の裏。ひどいコリがあるという。相応のひどい痛みに、うつ伏せの上半身を浮かせながらブンブン首を振る。山田さんだって足はやってくれる。だけどこんなに痛くない。
「い痛いッ」
 あまりのことに目がチカチカする。何の事なしに男は続ける。
「左足に力を入れることは多いですか?」
 ひだりあし。何とか捕まえた音。ビーチフラッグス一歩目、踏み切るのはいつだって左足。母指球の付け根にその親指がめり込む。
「いい痛いッ」
「ここは『胃』」
 胃が悪いのは前からだ。だから特段何が変わった訳でもない。
 虫のようにもがく背後からため息が聞こえた。
「言っときますけど、速水さん、コレ初級ですからね」
 平時、挑発という挑発に食い気味に乗っかっていく私でも無理なものは無理だ。ぐうの音しか出せずにいると「前はもっと強くても平気だったのに」と被せられた。ホラ言わんこっちゃないと言われた気がした。


 例えるなら山田さんは7。力強くて、でも癒しで、心地よい痛みの分だけ矯正される。一方、この男は5と10。本来あるべき場所に「押しやる」5と、歪み、コリがひどい場所に限って「押し込む」10を使い分ける。
 山田さんが見つけたコリは別にあって、そっち優先。けれど山田さんに会う以前、最初の最初、私は足先の冷えを苦痛としてこの場所を訪れた。だからこの男にとってのミッションは、徹頭徹尾

「なかなかぬくもらんなあ」

 私のつま先をあたためることだった。
 思えば「ガチガチじゃないですか」と言われた時のこと。男はたぶん私に必要なのは精神的な癒しだとして山田さんの方に促した。結果むしろパワーアップしてガチガチになって帰ってきた。だから何でこうなったと憤慨した。それこそが「潰す」という単語にぴたりとハマった気がした。
「ラベンダーです」とわざわざ口にする。
「夏に合わせたさっぱりとした精油です」
 ラベンダーは入眠時にも勧められる、高いリラックス効果を持つ。それはいつかのベルガモットを彷彿とさせた。




 いい加減にしろよ。




 ラベンダーに強制の力はない。けれど。
 あの場所がなくなるかもしれない、
 テニスができなくなるかもしれない、
 そんな不安は、わざわざ強制などせずとも、頑として従わせるだけの力を持ち得た。そうして結果私をテニスから引き剥がすために必要なのは「テニスができなくなるかもしれない恐怖」だけという事実に戦慄する。僕とテニスどっちが大事? という声が聞こえた気がした。


 帰り際、男は「まあまた気が向いたら来て下さい」と言った。期待はしていないようだった。
 放心状態でやかんピーから解放された私は、腑抜けた身体から残りの一滴を搾り出すように「はい」とだけ返事をした。
 とりあえず寝ようと思った。







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