水深10メートルでこんにちは(非言語)
TO:仮想現実な世の中へ
話の通じる人とと通じない人がいる。
仮にこの話の目的を「人との繋がり」とした時、そもそも話すこと自体、一手段に過ぎないという観点。単純に話が尽きないというのは相性。おそらく同質。リスクとしては互いにペテン師疑惑が浮上すること。
逆に言葉を介さない、何を話す訳でもなくただ居るという関係性もあって、そういう時、とある友人を思い出す。「ハナ」と呼んだ。モデルの田中美保そっくりな友人だ。うれしい時、心細い時、たった2文字の音の調子を使い分けた。この2文字で感情の当て比べをやれば、誰よりも豊かに表現できると自負している。
ハナのアパートには『ワンダと巨像』というゲームがあって、主人公が自分の何倍もの大きさの像に戦いを挑むのだけれど、これをよくやってもらっていた。
全16体倒すために、本人自ら始めた一体目をのぞく15回「ワンダやって」とお願いした。気分じゃなさそうな時は転がりながらお願いした。その度にハナは「えーあれ怖いんだよー」と言いながら、「んもうッ! ドンくさッ!」と主人公をなじりながら(アップで見るとイケメンなのに、走る姿が絶妙にダサかった)毎度初めて見る巨像相手に立ち向かっていく様を、隣でひゃーひゃー言いながら見ていた。
以前も少し書いたが、私の友人に共通するのは「母性」。転がりながらお願いしたのなんてあの時くらいだ。そのくらいお腹を見せて甘えていた。全くしゃべらない訳ではなかった。でもずっとしゃべっている訳でもなかった。ただそこにいてくれればよかった。おりすんと同じ。私はこの時、この2人によってその場に生かされていた。
自分の電源を落とす時、眠りに落ちる直前、やっぱり「ハナ」と呼んだ。真っ暗な中で「何?」という声が返ってくる。身勝手な友人は、そうして幸せな眠りについた。
何故その人を好きになるのか。
ハナについて聞かれても、じゃあ何でも答えられるかと言えばそうでもない。知っていたとて、誕生日、血液型、家族構成、恋愛編歴、幼少期のトラウマ。じゃあそれらが私達の関係性に重要な役割を果たすかと言えばそうではない。
そんなことよりも今目の前にいるハナが何を感じ、何に心動かされ、何を求めるか。それ以上に大事な情報などなく、私はただその辺に転がっているだけ。傷ついたと言えば寄り添うし、うれしかったと言えばともに喜ぶ。
ただ在るということ。そこにメリットデメリットという言葉はそぐわない。興味関心、その深さが近しい訳じゃない。むしろ一つも近しいものなんてなかった。けれど傍にいた。居心地がよかったからだ。
非言語。私は何をもってか彼女を好ましく思ったし、敵ではないと認識した。それは相対する彼女の表情や仕草、その他無意識の領域が判別して出した答えであり、本能的に「是」としたからなのだろう。
特定の分野に特化して、同じ深度で話ができるVRの世界があったとして、じゃあアバター同士が無言でずっと隣にいるなんてありうるのだろうか。いや、あるのかもしれないが、だったら別のアバターでもよくないかと思う。ハナにとって私である必要も、私にとってハナである必要もなかった。でもそうじゃないのは生身の人間同士だから。
本当に繊細な動きを、変化を、たぶん人間は本能的に察知する。そうして空気感というのは当人同士にしか分かり得ない。
所詮人もただの動物である以上、基本完全に互換するには無理がある。「それ」が既に存在する世界に生まれ、何らかの理由で「そこ」での人間関係が起点やベース、というのならまた違うのかもしれないが。
全ては「寂しさ」から逃れるため。非力な葦はさまざまな手段で手を取り合おうとする。その「さまざま」の分母が広がっていく。
要不要。適合不適合。向き不向き。ただ例え選択肢が増えようと、結局は似たもの同士が同じ空間に集まる。そういう意味では根本何も変わらないのかもしれない。
ハナは猫を飼っていた。一緒にいた時にも捨て猫2匹拾ってきて、翌朝私の身体を踏みつけながら2匹が元気に駆け回っていたのを覚えている。
数年前、久しぶりに連絡した時にも「猫いるー?」と言っていた。相変わらずたくさん抱え込んでいるのだろう。
膝を見る。
猫はいるんだけどな。
ハナはおらん。でも猫はおる。
ただいるだけで(よく鳴くが)のびのびと転がりながら(それワシやないか)
「ハナ」
何の躊躇いもなく、何の遠慮もなく、何の気兼ねもなく、何の意識もなく、
無防備に呼んだことを思い出す。
膝で丸くなっていた飼い猫が「にゃっ」と鳴いた。