その娘、危険なワイフ【連載小説】(2/22)



【2015年3月18日(水)】
 驚いたのは杉田さんが結婚していたこと。それはブラザーのように分かりやすく身内を連れてくることがない限り、知り得ないこと。そうでなくてもテニスコートでわざわざ話すことでもない。知りたいと思わない限り。
〈まだボクのパートナーだ〉
 それはアキラが初めて男を見せた日のことだった。直接関係ないのにドキドキして、帰り道、それとなく聞いてしまう。
「他に結婚してる人とかいるのかな」
 ブラザー、と言うと、切実さの滲んだ声量に男は頭をかいた。
「いないんじゃねぇの? 鈴汝サンもアキラもあんなんだし」
 少しの間。続くは大きなため息。頭に手のひらを置かれる。あの人がよく紅葉の頭をなでているように。
「……。……してねぇよ。頼むからして欲しいくらいだ。あんなカタブツ、そのまま行ったらどっかでバッキリ壊れちまう」
 紅葉の頭をなでるあの人の目はやさしい。強いクセ毛を気にしている紅葉も、その時だけはうれしそうにしている。
「だから同じ温度できちんと向き合えるような相手に早いとこ出会って欲しいんだよな。ただ、その相手は少なくともお前じゃねぇよ、シスター」
 それは
「子供だから?」
 同じ温度って何だろう。あたしにとってのあの人と、あの人にとってのあたし。少なくともあたしにとってのあの人は、充分な熱を持っているはずなのに。
「そうだ。何でもかんでも子供って理由つけて、テメェ自身の未熟さと向き合おうとしないヤツなんて、スタートラインにすら立てねぇよ」
「厳しいね、ブラザー」
「やさしくして欲しいか?」
 ううん、と返す。
「ねぇ、あたしはどうしたらいい?」
「そうやってすぐ答えを求める所が子供なんだよ」
「ブラザーは何を恐れているの?」
 再びその頭をかく。
 ブラザーはやさしい。あたしが子供扱いされるの嫌なこと知ってる。その上で上手にバランスをとる。
「……背伸び自体は悪いことじゃねぇ。でもどうしようもねぇこともある」
 寺岡さんの紅葉を見る目はやさしい。それはまるで猫を愛でるような。紅葉も紅葉で、愛情を受けて、まっすぐうれしいと返す。
 それはうらやましいようでいて、そうではない。
 あたしが求めているものとは、似て非なる。
「惚れた腫れたなんて、若い内は勝手にやってろよと思うが、俺達くらいになると社会的な立場がある。責任がある。何はなくても仮にお前が声を上げれば、事実関係どうこう確認する前に、アイツ一人くらい簡単に社会から抹消できる。その位ヤバい力持ってるヤツが、考えなしに突っ込んでくるなんて、恐怖以外の何ものでもねぇよ。……それに」
 ブラザーは再びあたしの頭に手を置いた。それは「待て」だった。
「……何でもねぇ。まぁ、あんなんだ。今の今までクソ真面目にコツコツ積み上げてきた。言った通り、実際何はなくてもそう見られたら終わりなんだ。ああやってかわいがって貰えばいいじゃねぇか。頼むから変な気を起こさないでくれよ、シスター」

【2015年3月25日(水)】
 あと一年半。それは気が遠くなる程長いようで、一方その時までに「同じ温度で向き合える相手」になっているのが課題としたら、どうにも短いようにも思えた。
 国語数学理科社会。教育を受けた上で、どこからどこまでがテスト範囲だと教えてくれれば、今するべきことが分かり、今しなくてもいいことが分かった。でもあの人にとっての「同じ温度で向き合える相手」というのには枠組みがない。そもそもそれはブラザーの言っていることであって、直接あの人につながっているとも限らない。全部が全部ゆるい枠組みで、普通に生きていたら自然に身につくものでも、ショートカットを望むならそれだけプラスアルファの予習が必要になる。新幹線の電子音を聞きながら、最終日、ブラザーとした会話を思い出す。
「ねぇブラザー」
「何だ」
「みんなどこのクラスに行くんだろ」
「まだ言うか」
「ブラザー」
「……。……分かったよ。俺は金曜の十八時半、アイツは土曜の同じ時間。二週目だけは俺も土曜の時間帯に顔を出す。いずれにしても中級だ」
 その口元が少しだけ緩んだ。ブラザーはやさしい。
「よかったな、やることができて。まずはそこでも通用する力を身につけるんだな」

 カタタン、と少しの揺れで目を覚ます。
 見慣れない高層ビルに囲われた景色。それだけで随分遠い所に来てしまったように思う。
 たくさんある改札口。溢れかえる人。駅員さんはいる。でも。
 背筋を伸ばす。見るべきは、そこじゃない。
 

【2015年8月1日(土)】
 あっという間だった。五月の連休はとんぼ返りで、きちんと帰省したのは八月の一週目だった。
 荷物を自室に置きながらスマホを見る。
 一週目の土曜日。ブラザーが来るのは二週目だと言っていた。だから今日行ったところで、ブラザーはいない。いない、けど。
 時刻は十四時。まだ間に合う。行きたいなら電話一本で当日受講することは可能だ。
 紅葉は明日帰ってくる予定。だから今日は本当にあたししかいない。他に知り合いは誰も。
 スマホを見る。SNSを一通りチェックする。用のないネットニュースをスクロールする。用のないニュースを見終わってもまだスマホを手放せない。こんな自分が嫌だった。欲しいものがあっても、手を伸ばせば届くものにも、なかなか手を伸ばせない。ためらってしまう。傷つきたくなくて、本当は紅葉の方がよかったんじゃないかとか、ブラザーの方がうれしいだろうとか。でも気づいて欲しくて、遠くから見つめてる。

「あれ、久しぶり」
 かけられた声に思わず目を逸らしてしまった。純粋に恥ずかしかったからだ。
目を丸くしてうれしそうに近寄って来る。
 寺岡さんは「髪型違うから一瞬分からなかった」と言うと「卒業すると女の子ってすごい変わるよね」と続ける。変えたのはパーマをかけた髪型だけじゃない。化粧もするようになったし、爪にも気を使うようになった。
 でも別に気づかれなくてもよかった。一つ一つは些細なこと。そんなことより何より、心のどこかでキレイになったとか、大人びたとか、そんなふうに印象として残れば、それだけでよかった。
 金色のピアス。
 寺岡さんがあの人を見ているのは知っていた。

 何がどう変わるなんて具体的には挙げられない。それでもいつも30分遅れて現れる鈴汝さんが火をつけているに違いなかった。
 生物学上の女。
 決まったパートナーがいようと、子供がいようと関係ない。
 淡々と練習していた男達にくべられる薪。ぐん、と上がる火力。
 スマッシュが決まるたび、鼓舞される。雰囲気が変わる。
 サーブの、ストロークの、ボレーの精度が上がる。それはある種、競い合うかのごとく、深い所で首をもたげる本能。己が最も優秀であると示すために。それ程までに誰のものでもない女の持つ力は大きい。アキラの存在は、だからそんな「静寂を装ったむせかえるような野蛮」をならした。浄化した、と言ってもいい。それ程までに濃い雄の香が漂っていた。
「すごい、みんな上手ですね」
 中級と名がつくだけあって、メニューは全く別物だった。終始本番を想定したやりとりは、アウトしたボールを全て止め、八分割のコース制限も加えられた。落ち着くことのない心拍数は、けれども決してネガティブなものばかりではない。自由に打てるのは、それはそれで楽しい一方、明確な目標設定はそこに向かって身体が照準を合わせる感覚があって、そのポイントを言語化できたらと思うと、難問を解くときのようなワクワク感があった。しかもそうして見つけ出した解は、消えることがないのだ。私がバックハンドに自信を持てたように。
 寺岡さんは「でもついていけなくはないでしょ?」と言うと、くるりとグリップを回した。
 青ベースのラケット。それ自体、自分と大差ない大きさであるにも関わらず、やけに小さく見えるのは背景がため。あたしにとって斧ほどの大きさでも、この人にとっては包丁サイズに見えた。





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