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価値などない(後編)【テニス】
今思い返してみれば、あれは大きなヒントだった。
あの高さには覚えがある。ナオトと、玉ちゃんと、鬼と、白黒と、そして今回遭遇した男性が持っているもの。共通するのはスピン系。軽く殺しにかかってくる輩衆で、だから体力ゲージを最も要する。その価値は「ネットにかけない、続く前提のやりとり」それに「ベースライン付近に落ちる放物線の美しさ」
じゃあと「体力を補うため、ただランニングする」のは短慮であったとようやく気づく。全く意味がないとは言わない。けれど例えばサーブ不信に限定して話をするとしたら、まず手をつけるべきはそこじゃない。
完全ガス欠状態でサーブの体勢に入った時、何より力が入らなかったのはみぞおち、そして胸筋だった。単純に疲労が根性を上回った時、持ち上がらない。身体が上に伸びない。根幹が、足以上に上半身がブレていた。ただ、だからと言って純粋に鍛えるのは違う気がする。伸縮。イメージはデコルテの柔軟性。ヨガとかストレッチに近い。
ラリー自体、きちんとキャッチさえすれば、信じられないほど軽く出力できると分かった。だからやわらかく在ることこそ重要だった。
そう。サーブだろうとストロークだろうとボレーだろうと、怯える必要なんてなくて、「その人とその背景」を一枚の絵としてとらえられた時、初めて視野がひらけた気がした。そうして心のゆとりができると、それは構え、基本姿勢に現れた。
硬く強張るほどに飛ばない。それはまるでテンション65で張ったガット。だからあえて弛ませる。ゆるく張る。ふっ飛んでくる打球がいくら早くても、ボレー同士の距離じゃない。考えてみれば「目を負傷する可能性」以外怯える要素なんてなかった。
球威に関係なく、来たら返す。キャッチが下手くそな私は、いつだって来る前から返そうとしていた。
プライベートレッスンも終わり際、球拾いをしながらコーチが言った。
「何か最後迷走しちゃってごめんね」
私のボレー問題は、何も今に始まった事ではない。古く高校生の頃から前に出ることを禁じられ、ショートボールを拾ってその場で構えるとブチ怒られた。だから本当に何も分からない、ベースは赤子同然なのだ。
「時間がかかると思う」とも言った。「はい」と答える。
心の底からありがたいと思った。「それ」はまるで札束を沼に投げ入れるかのよう。公式戦に出る訳でもない、ただ朽ちていくだけのアラフォーである私に、本来赤子の如き手間をかける価値はない。けれど、そんな私相手に必死で言葉を尽くしてくれる。時間をかけて向き合ってくれる。それはそれは身に余ることだった。
加えて少し視点を離すことで気づいたことがある。本来ななコはストローカー。繰り返すが、ななコはコーチとしてよりもプレイヤーとしての気質の方が色濃い。私自身そういう解釈をしている以上、コーチだからとその動きを制限させるのは違う。
分かってるよ。ななコにとって私はストレス。少ない球数だろうと打てば分かる。いや、限られているからこそ浮き彫りになってしまう。あんな固いななコは初めて見た。私にとってボレーはストレス。だからこそどっちに舵を切るかでこの先が大きく変わるのだろう。結局は自分がどうなりたいか。
結果的に人を楽しませることができるようになったなら。
その時初めて、私にも、私を育てた人にもプラスαの価値が生まれる気がして。