付録、二つ名
高校生の時、リンというあだ名を付けられた。同じテニス部の人間がつけたものだが、いつからか部活という枠組みを超えて、高校生という年代を超えて、男女の境も超えて、結婚するまでずっと近くにあった。
有り余るエネルギーを発散させるため、声を上げる。やかましい高校生一団は、アンパンマンの勇気りんりんを叫びながらテニスコートに向かう坂を下った。どうやらリンというのは、勇気の鈴の音を指すらしい。
一度だけ、名前にかすりもしないあだ名をつけたことがある。
夏目さんと呼んだその人は、当然最初振り向かなかった。元はと言えば友人に当たる人に「ううん、アイツは『ナツメ』。呼んでみ」と教えられたためで、後々聞けば当時好きだったAV女優の名からとったらしいが、残念ながら既に私の中で名と体が一致してしまった。苦笑いするしかないその人を、私は最後までその名で呼び続けた。
〈──万里?
顔を上げると、吉宗が真剣な眼差しで見つめていた。
──儂を手伝うというならば、そなたにこの名をやろう〉
「歩いた道を絵図にしてみよ」と言われ、懸命に筆を走らせた日のこと。江戸市中の絵図ができた時、吉宗は自ら筆を執り、余白に「万里」と書きつけた。父親が青菜を売り歩いていることから青名半四郎と名付けられた男が、御庭番として別の名を得た瞬間だった。万里はこの時の喜びを〈馬を賜ったような気がした〉としている。〈己の二本の足で駆けるよりも、その名の馬ならばもっと速く遠くまで行くことができる〉と。
人は見られたようになる。それは何も人の目に限らず、自分で自分をどう見るか。万里という名を得た男は、体現するがの如き働きっぷりを見せた。「そうなろう」と無意識レベルに何かが染み込んだのだ。ただ、これは万人に起こることではない。酔った勢い、気の迷いなら泡沫。定着したのは相手が吉宗だったから。
自分にとっての相手と相手にとっての自分。例えばその人は自分にとって影響力があるか。尊敬できるか。その性質を理解しうるか。それは何も「つけられる側」のみの意思ではない。「つける側」にも言えること。ただ、つける側はそもそも適応がなければつけるという行為自体発生しないので割愛する。
呼ばれるのが好きだった。最も印象的なのは、高校時代のペアの子。
お願い、と言った。
〈リン、お願いッ〉
駆ける。ストレートに抜けたロブを、回り込んで逆クロスに返す。ショートボールをアングルに叩き込む。
〈──儂を手伝うというならば〉
私もまた、あの時馬を賜ったのか。自分であって自分でない、もっと速く遠くまで行くことのできる、その声を聞くたびに鈴の音がしたような。
呼ぶのが好きだった。遠くから呼ぶ時、振り返った時、周りから不思議そうな目で見られるのを見た時、「いやコレには事情があってだな」という顔になるのを見た時、ただただ幸せだった。あれだ。好きな子に嫌がらせをする男の子、「バカじゃないの?」と言われたい心理と全く同じ。
自分にとっての相手と相手にとっての自分。
名を一種の呪いとした時、そこに「縛り」をはらむとした時、世間一般に紛れて潜む縛りに比べ、特別な名はそれだけの効力を孕むのだろうか。二つ名。自分ではない自分。化けるということ。例えば折本里香がリカちゃんになるように。
勇気の鈴の音。その瞬間だけ形を保ったまま別の生き物になる。
〈最後は人で?〉
私は私の信じたもののために自分を消費する。
いつの日か笑って答え合わせできる日が来るのを願って。