沼(フォアサイド3カメ、1)【feat.メガネくん】
「一周まわりました」
予期せぬ声に言葉を失う。その後一拍置いて「違う」と突沸がごとく噴き上がった思いを何とか飲み下す。
何事もなかったかのように。だから何事もなかったとして話は進む。
以前も同じようなことがあった。練習前のストレッチをやるかどうか確認したコーチに「やりません」と答えたのはこれと同一人物だったか。
私が知っているのはその人がこの時間帯のレギュラーではないこと。だから「ちょっと待って下さい」と言ってメガネくんに確認した。メガネくんは毎回ストレッチはしているという。
どこか言った者勝ちな世の中で、何の根拠もなくはっきり言い切れる神経は野放し。ただわざわざ訂正する必要性を感じなかったのだろう。やらないならやらないで10分前からストレッチを始めているメガネくんにとったら大した問題ではなかったのかもしれない。
再びやってきたメガネくんのクラス。この日戸塚は会員として仲間内でテニスをしていた。2、2のストレートラリーと一面のフリー。フリーは時間制限があるだけで、話し合って何をするか決めていいとのこと。順当に行けば最後メガネくんと当たるはずだった。
私からしたら、そんないきなりぼた餅落とされても何も思い浮かばない訳でして、思い浮かぶとしたら「僕は何でもいいよ」と言うメガネくんの姿だけだった。
そんなプチパニックのまま「その時」を迎えて発生したのが冒頭のやりとり。
いや、終わってませんけど。
喉元まで出かかった思いが、結局音にならなかった理由は今でもよく分からない。レギュラーでもないのに出しゃばるのも、と思ったからとか、わざわざ波を立てるのも違う、と思ったからとか、単純に恥ずかしかったから、とか、「それもある」というだけで、どれも「これ」という答えではない。とにかくこの日、あるはずだった誰にも邪魔されることのない時間が奪われた。
〈お前は誰とでも打てるだろう〉
以前夢で見たのは正夢だったのかと冷えた頭で思う。
以前も同じようなことがあった。いたけど打てないことが。
だから特段堪えることではない。代わりに外から見て、その人が今どこにいるのか、その輪郭を把握することで次の機会に備える。そこにいさえすれば、やれることは他にもあった。
基本中の基本。ボールをよく見て打つ、は当たり前故に軽んじられやすい。皆が皆できていれば、ガシャリなんて言葉は生まれないのに。
それはどこかイメージで物を話すことに似ていて、例えるなら「あまり本を読まない友人が、唯一心に残っている本として『五体不満足』を上げた時、知り合いがごく簡単に要約して、そんな大した内容じゃないと鼻で笑うのを見た」時の感覚。この時、この人にだけは自分の書いたものを見られたくないと思った。その人自身、年間何百冊本を読むという人で、たぶんすごいんだろうけど関わりたくないと思った。
大事なのはそこじゃない。
大事なのは「あまり本を読まない」友人にとって「唯一心に残っている」本だということ。彼女にとっての10分の1が云100分の1と同じな訳がない。そこには彼女なりの物語が生じていたに違いなくて、だからここでするべきは「どうして、何が心に残ったのか」聞く、ただそれだけだった。気持ちよく投げて「すごーい」と言われたいだけのピッチャーには到底分かるものではない。
分かった気になる、というのは怠惰だ。
男だから女だからと言ってみたり、昭和だから令和だから、年だから若いから、とにかく何でもカテゴライズして話をする。それは、そう括って仕舞えば自分が楽だから。そうして自分にとってのコミニュケーションのハードルを下げることで、結果的に理解した気になる。よっぽどのことがなければ指摘されることもないだろうから、本人は上手いことやれている気になる。永遠に埋まることのない温度差。無自覚で1人パラレルワールドを生きる人、結構いると思うし、私の後頭部にもちゃんとブーメランが刺さっている。だからこそガシャらないというのはそれだけで安心感がある。イメージで括るのではなく、誰とでも対等に接する。それは女と区別しないことや、幼さを許さないことも含まれる。一見冷たく見えようと、だから相応でいようとする。
忘れられない一打があって、ある日のラストポイント、アドサイドからのメガネくんのサーブ。フォルトからのセカンド。数本のラリーの後、相手前衛として立っていた私は、ここぞとばかりに飛び出した。次の瞬間、
シングルのバックハンド。わずかに引き込みを深くしたインパクトから繰り出されたはストレート。しまった、と思ってももう遅い。
打球はスローモーションで横を抜けて、誰もいないコートの角を削った。
驚くべきはその美しさ。容赦のなさ。覚悟。
セカンドの段階で、精神的にどうしても押されがちになる。ラストポイントともなれば尚更。しかしリターンの強打さえならせば、メガネくんにとったらイーブンむしろアドバンテージ。
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