Let’s 負け diamonds to get her〜大人になれない日々の歌〜【feat.ひこにゃん】
〈3年、5年、そんなんで本当のかっこよさは磨けるものじゃない。ダイヤモンドってのは物凄い力で圧縮をされてしかできないんです。物凄いプレッシャーとか物凄い圧縮をかかったほど、本物のダイヤとして価値が出てくるんですね〉
「大愚和尚の一問一答」というYouTubeチャンネルを最近見る。始めこそ「教え」という形でふむふむ聞いていた動画は、けれども2日目終わり辺りから早々にBGMと化し、いつの間にか私の中でヒーリングミュージック的な役割を担うようになっていた。淡々とした口調と穏やかな抑揚が非常に心地よく、睡眠導入におすすめしたい。
冒頭は「本当に素敵な女性は“1割“の本質を見る」という動画に収録されていた末尾一説。今回はこのダイヤモンドとやらを題材におしゃべりしようと思う。
最近改めてテニス歴を考えたところ、中学は軟式だから除外するとして、高校丸々と、大学4回生で半年、社会人で5年。高校では実質2年半だから、合わせて8年程度になる。数字にしてみたら思うより大したことなかった。
恋愛において「出会ってから関係を築く、付き合うまでの期間問題」が取り上げられることがあるが(やれ何回目のデートで告白する、キスするのアレな)元々スパン長めに設定しているチキンな私でさえ、テニスという競技を介して一時的に全ての感性を解放している状態となると、この感性こそが至上に思えることがある。まだ早いとかどうでもいいのだ。それを上回る反応があった時、新鮮な刺激に従ってみるのは悪いこととは思えない。一方でかすめたのはダイヤモンド。まだ私は満たない。
大人のテニスができるようになりたいと思っているのに、まだまだ学生テニスしてんな、と思うのは、血気盛んが故。何事も夢中になれるというのはそれだけで幸せだけれど、それが視野を狭める。
理想は一歩引いて全体を見渡して、今与えられた課題の意図を汲んで、一辺倒じゃない、柔軟なテニスができるようになること。本来そのためにコーチがいるのであって、けれども血気盛んなメンバーはコーチが「誰も僕の言うことを聞いてくれない」と嘆く通り、最低限のテーマだけタッチして戦に出たがる。何より狩り自体が楽しい。このクラスに精進料理はまだ早い模様。
分かってはいる。コーチの言っていることは分かる。でも頭で分かることと、理解して体現することは違う。分かっていても、球種コースなど、成功率の高い方を実践では使いたがる。それは新商品を試すよりも「美味しいと分かっている自分にとっての定番品」を注文したがる心理にどこか似ている。だからいつも似たような試合展開になる。
かと言って全く変わってない訳じゃない。それでもコーチの望む一歩は、きっと私にとって「たくさんの無駄な動きをした先で何気なくホイと踏み出したものが偶然それだった」パターンな気がして、今でももちろん「聞いてるフリ」はするけど、理解して体現するまでに至れない。しかしここで少し言い訳をさせて欲しい。ただでさえ緊張する中、さらに制限をかけるということがどれ程のことか。
私自身、ここに来たての頃は試合が嫌でしょうがなかった。相方に迷惑をかけたくないし、サーブを打ちたくないし、最終コートにいるのにこっちにボールが来なければいいのにと思うことさえあった。
元々ただラリーがしたかった。でも後ろにゲームが控えていると安心して楽しめない。だから始まりは「楽しくラリーがしたい」ための「ゲームを上手く乗り切るため」に臨んだのは、苦手なサーブだった。
サーブは全ての始まりを担う。責任という単語のふさわしい行為であり、このサーブを巡るやりとりは何度経験しても面白いので紹介しておく。
サーブ権を得た時、相方とのやりとりは3パターンに分かれる。
1、 サーブどうぞ、とボールを寄越す。
2、 サーブ打ちます? と顔色を伺う。
3、 何も言わずボールを持ってベースラインに下がる。
ここからも分かる通り、半分以上の人間は打ちたくない、否、試合を始める責任を負いたくない。ちなみにこれは男性とのやりとりであり、いかに彼らがプレッシャーに弱いかが伺える。今でこそ不毛なやりとりにテンションを下げる前に「もらいます」とボールを取るようになったが、私にとってのサーブは「学生の時1試合17本ダブルフォルトをして、唯一アンダーサーブを許された」レベルであり、それはそれは試行錯誤の連続だった。
いろんなコーチに指導を仰いで、その都度一時的に良くなるものの、なかなか安定しない。その後「ピッチャーの投球のイメージ」として左足一本で着地するイメージが芯になって、ようやくそこから週300本のサーブ練習を始めた。丁度1年前のことだ。背骨を中心に力の加え方、付属品を得ていく。やっとスタートラインに立てると思った頃には、それは立派な一つの武器と化していた。
怖くて相方に迷惑をかけたくないし、サーブを打ちたくないし、コートにいるのにこっちにボールが来なければいいのにと思うことさえあった自分は、その後サーブで得たポイントを担保に攻められるようになる。そうして仕留めるつもりで打ち込んだボールは、与えられた役割を全うする。基本男性はスピンでやり合うため、純粋なフラットの速さには慣れていない。それは時にコートを分断し、相手のミスを誘った。
そうして調子が良ければいい。けれども一度サーブが入らないとなった時、話は変わってくる。セカンドサーブが続いた時、どうしても圧される。弱腰になる。そんな時、相方に迷惑をかけたくないという気持ちは容赦なく浮上した。誰だって調子に波はある。プロでも「マジでダメな時」は全体の1〜2割くらいあるという位だ。でもだから何だという話だ。それはその人個人に終始する問題であって、ゲームには、相方には関係ない。歯を食いしばって、マジでダメな自分を晒しながらも前を向くしかないのだ。
ねえ、ひこにゃん。
先日はひこにゃんダメデーだった。というか敵として向き合う時は無敵ショットを量産するのに、前々回もそうだったが何で味方になると途端にホームラン王になるんだよ。何需要だよ。
テニスで言うペアは、実は周りから見るより影響力が大きい。多かれ少なかれどちらかが主導権を握っていて、だから敵になった場合、どちらが主導権を握っているか把握した上で試合展開をするのも一つの技術だ(『考えるテニス』橋爪宏幸さん)
ひこにゃんと私ならどうだろう。
純粋な実力で言ったらひこにゃんに違いない。けれど相も変わらずひこにゃんはホームランを打ち続けている。試合を始める前、コーチが「勝ち負けにこだわるのもアリ、そんなことよりやりたいことに全力投球もアリ」と言っていた。ここでは「仕方がない、私が調整をかけるか」となるのが多分一般的。理想は一歩引いて、全体を見渡して、例えばロブを一本上げるような。でも思い出して欲しい。このクラスにそんな大人なテニスができる人間はいないということ。だからコーチはわざわざ2つの「アリ」を用意した。いいから好きにしろ、楽しめ、と。
いいから、
前を向いて。
「一本」
あなたのミスなんてどうでもいい。
前を向いて。次を取るための一歩を。
結局は自分で自分を立て直すしかない。自分の力で立ち上がるしかない。怖くても、緊張に身体が強張っても、
「いいから。どんどん打っていきましょう」
謝らないで。
あなたが望むのならしょうがない。
付き合うよ。思う存分、暴れようじゃないか。
一本が決まる。
次が見える。
テニスで言うペアは、実は周りから見るより影響力が大きい。強気のプレーには、他の誰より味方が鼓舞される。互いが互いを鼓舞する。それはエンジンとエンジン。
遠慮なく出られるのは、ひこにゃんがバカみたいにホームランを打つから。調整をかければいいのに、こだわるから。
それは良し悪し。融通が利かない。視野が狭い。
それは良し悪し。逃げない。
格好悪い自分、捨ててしまいたい自分、に、まだ期待を残している。この人がこれだけやらかしているんだから、バカやっても大丈夫だと、知らず私の許容範囲は広がっていた。
「俺が受けましょうか」
顔を上げる。それは向こうからの初めてのコンタクトだった。
カウントノーアドバンテージ一本勝負。アドサイドにいるひこにゃんが口にする。
驚いたのは本人決して調子がいいとは言えないリターンを小脇に抱えての申し出。突然のことに「あ、はい」としれっと譲ると、前衛に構えた。展開覚えてないけど、その一本はとった。最終、ゲームカウント2−3、2―3。「休憩を挟んでペア替え」という声に反応してさっさとベンチに戻る。
スマホをいじるひこにゃん。この短時間で切り替えとか、私には絶対無理だ。水分補給をしながら、昨日見たウインブルドン2回戦の本玉選手のプレーを思い出す。いいショットは打てているのに、大事なポイントが取れない。例えるならオセロの四角を取れないような。
コーチの合図で再びコートに戻る。ひこにゃんは隣のコートに移った。
あの男は確かにホームランばかり打っていた。でも、
〈俺が受けましょうか〉
実はその前にも取り切りたいゲーム、最後の一本をこの男が負っていた。2つの角は抑えていた。体感よりスコアがボロボロじゃなかったのはそのためだ。
実は私自身、割り切っていた分、普段スライスを多用するリターンで数年ぶりに真っ向勝負に挑んだ。それだけフラットで叩くというのはプレッシャーがかかる。安全に流してゲームを組み立てるのではなく、力を力で返す。最初から主導権をよこせと主張する。結果、丸々私のリターンでとったゲームがあった。今まででは考えられない異常事態である。
テニスで言うペアは、実は周りから見るより影響力が大きい。
本日の課題はスライスを交えた試合展開。今日もコーチに謝る。
「ああそう」
もはやどうでも良さそうだった。いや、悪いとは思ってるんだよ。でも、
ダイヤモンドよりもやわらかくて、という歌詞を思い出す。
ただやわらかければいいってもんじゃない。圧縮されて、息ができない程に煮詰められて、欠けて、傷ついて、ふとした瞬間ようやく緩む。緩急。それはどうにも壊れようのない「しなり」を生む。
おばさんどころかおばあさんになって、シワシワの、どこにもキラキラした要素がなくなった頃になってきっと、やっとありふれた若さと別に輝く、本物のダイヤモンドになる。
だから、ごめんね。
まだもうしばらく自由に遊ばせて。