価値ある一打(前編)【feat.やえ歯くん】
もう跳んでた。
見たことがあるようでないのは、通常今の立ち位置から見るものではないから。見たことがないようである、有無を言わさぬ一撃。
例えば全体の売り上げを伸ばそうとした時、売り上げ金額の多いところから着手する。πの小さいところをいくらこねくり回したところで、変化の絶対量は限られているからだ。
じゃあここで言う「売上金額の多いところ」は何か。テニスでいう根幹を担うもの。それは「まずは自分のプレイスタイルを理解し、自分に合ったベースを整備すること」だ。
ただ、言ったところでこのこと自体、すぐさま実現できるものではない。
以前リターンどっちのサイドに入りたいか尋ねられた女性が「どっちがいいと思います?」と聞き返していたのを思い出す。自分ではどっちが得意なのか分からないという。
ことテニスに限らず、自己分析の重要性はこんなところにも現れる。聞かれる側からしたら、例えコーチであったとしても「知らねえよ」という話である。ただ、女性の言うことも分からなくもない。自分は何が得意で、何を苦手とするか。苦手はある程度分かるとしても、得意というまで自信のあるショットを持たない場合、それは暗に「負えない」という一種宣言にもなる。
ラケット選び。自分に合う重さ、バランスポイント、グリップの太さ。ガット。ガットのテンション、太さ。「〇〇選手が使ってるから」で選んだとして、けれどその人と同じプレイスタイル、筋力を持っている訳ではなくて。
まずは自分のプレイスタイルを理解し、自分に合ったベースを整備すること。見る角度によっては今更である。ただそこに至れたのは、私自身、理想的な美しいスイングと、誰とでも「ゆっくり」で安定したやり取りができるストロークを求めた結果であり、偶然その交差点に浮上したのがグリップ(握り方)問題だったに過ぎない。
よく「面が上を向いている」と言われていた。言われる度に握りと当たりを確認した。グリップの名称は何度聞いても覚えないから省くが、私のベースは「ラケットを置いた状態で上から握ったもの」テイクバックでは面は伏せられているはずだった。
けれど実際のスイングはというと、面を伏せた状態では飛ばず、代わりに手首を開くようにして勝手に面の向きとスイングの角度を調整していた。ボーリング打法の根。客観性の欠如。特性上手首が自由に動くグリップは、スナップを効かせる上では良くとも、相対する打球の重さによっては容易く安定を失うものだった。
元々「サーブ、ボレー」と「ストローク」でグリップを使い分けていたのだけれど、ここ最近バックハンドをサーブ、ボレーと合流させた。毎度ミリ単位での調整だ。玄人は知れないが、グリップチェンジを一種リスクとした時、例えばワングリップで済むようになるなら。
手首やスイングの軌道で面の角度をいじっていると分かって、改めてストロークを見直した時、おそるおそる調整したグリップは、まさかのボレー持ちだった。まるで始めからそこが待ち合わせ場所だったかのように、全てがぴったりと重なった。
そこからまた見えるものが変わった。
上手いな、と思う人達。きちんと噛み合ったラリーを見た時、以前はあった「自分とは違う」という線引きが少しだけ薄れたように感じる。身体の動かし方、力を入れる部位が感覚として分かる。今まで最終手首主導だったものが、グリップの特性上肩まで連動する。右半身で受け止める感覚が強くなる。
一体感。そうだ。ソウさんはそうして右半身で受け止めていた。引き込み過ぎに見えた打点、自分の身体で出力の方向を隠して、そうして引き込んで、引き込んで反転する。受け止めた力をまっすぐ返す。打球の重さに左右されないそれは、キャッチの土台を確実に上げる手段で、最終週を終えた今こそ変え時だった。
そこまで来ると、サーブ、バックハンド、フォアハンドに関してはある程度補強が済んだ形になる。ひとつひとつ丁寧に見直しながら育てていく段階に至ると思ったのだけれど、基本このクラスは育つまで待つ気なんてなくて。
本人の申し出か、はたまたコーチの采配か。
ゲームからやってきた未成年がコートに入る。上手いんでしょうね。へっぽこストローカー相手にゲームを落としたことが屈辱だったんでしょうね。メンタルがそのままプレイに出る少年は、10か0か。まさにストレス発散せんばかりの勢いで打ち込んでくる。
あるよね。「誰でもいいから殺したかった」「むしゃくしゃしてたからやった」私自身、初めてななコのクラスに顔を出した時そんな感じだった。ただ同じコートに立つ以上、相手をしなければいけない訳で。ダメだ笑わねえ。面晒して完全に殺りにきてやがる。
実は視界の端に映ってた。ひとつ前のゲーム、そんな未成年Aと組んでいたのは、いつかのイケメン。気後れしてしまうような攻撃特化型に、味方として合わせてか張り合ってか、なんだか良さげなストローク戦を繰り広げていた。笑うと八重歯がのぞく。仮に男を「やえ歯くん」とする。
このやえ歯くん、実は過去にも少しだけ触れたことがある。唯一まともに会話ができる「こんばんは♪」なサウスポー。確か取り上げたのは『超えられないなんて誰が決めた』と『強制ベルガモット』。あとあれだ、「何でひここがあそこにいる」の時ペアを組んでた男性がこの男と一緒に現れたから、最終5ヶ月前に来ている。
私自身、全員が全員覚えている訳ではない。それでも記憶しているのは、サウスポーであること、あとは1ゲーム4本ダブルフォルトで終わったことがあったためだ。いや、珍しいけど、可能性としてなくはないよねって笑ったのを覚えている。
久しぶりに会った男は、緊張からかショートストロークがとんでもなく安定せず、この日も「大丈夫か?」と思っていた。
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