独白状ー夏目漱石『こころ』を聴きながらー
オーディオブックというものを使ってみた。決して能動的な理由からではない。単純にブルーライトに起因するひどい頭痛が、日常生活に支障を及ぼすようになったためだ。
【これは読書感想文ではありません。同作者による『デュアル!』及び『その娘、危険なワイフ』のあとがきです】
視覚による情報が5割強を占めるというメラビアンが脳裏をかすめ、本当に使い物にならなくなる前に代替案を探した結果、「がっちり月曜日」な情報がするっと入ってきたんでしょうね。「移動時間有効活用」なるほどよろしい。
それまで「読書には行間というものがあってだね、自ら追うことこそが大事なのだよ。ふふん」と斜に構えていた初期設定はどこへやら。背に腹は代えられん。耳に目は代えられん。という訳で、早速使ってみる。
ここでまず語らなければいけないのは、その本体による効果効能ではない。
自分の耳が全く機能していないという事実だった。
歩くことも回ることも立つことも座ることも、やらなければいずれできなくなる。使わなければ退化する。それは人間に備わっている機能であり、その内「聴くこと」も例外ではなかったのだと知る。
確かに追われてはいた。締切に間に合わせるため、休みのたびに10000字ベースで書き続けていた。けれどもそれは「その時」だけに終始しない。おそらくは無意識に日常を侵食して、対人関係においても容赦されていた可能性が極めて高い。
移動中、最大音量の良い声が流れる中、強制的に聴覚をジャックされている状況で、まさか私は別のことを考えていた。自分の書いた物語の別視点である。いい加減子離れできない親のようで見苦しい。
そうして私は私の世界を引きずって、内側にパジャマを着たまま、一人の大人の面構えを装って社会人を果たしていた。人を前にしながら、人と向き合うのではなく、オートで再生される業務を遂行していた。そこに変わらずお給金は発生しているにも関わらず、不誠実が表沙汰にならないのをいいことに、私は私に始まって私に終わるような世界を黙々と歩んでいた。
決して浅いものではない。そんな浅瀬で作れるような物語はない。そのことはつまり、この罪の根深さに他ならなかった。
即座にこの耳をどうにかしなければ、と思うと同時に作品を終わらせた。
オーディオブックというものを使ってみた。記念すべき初読みは夏目漱石の「こころ」洗濯物を干しながら、アイロンをかけながら、料理をしながら、実は耳がヒマをしていたことに気づく。その間、何も考えていなかった訳ではない。けれども半強制的に入ってくる景色は、自身の情景描写の難点をそっと洗い出した。
少しずつ、少しずつ人の声が入ってくる。Kは私だと思った。Kに相対する自信のない「私」は私だと思った。心理的な駆け引きをする奥さん、二人の男の間で好きに振る舞うお嬢さんまでも私だと思った。
「相手の立場になって」というのは、一見聞こえはいいものの、消しきれない自我の目で見ているものであって、本当に相手にはなっていない。「つもり」その罪の深さは、思い込みによる好意の押し付けであり、それが本来相手が求めるものでないにも関わらず、したり顔で感謝を搾取すること、その狭間に生ずる温度差そのものである。それはただ独りよがりの、冷たい何か。
我が強い、という短所の根はここにあると推察する。
「相手の立場に立つ自分」ではなく「きちんと相手になる」こと。そこに自分という概念は生じ得ない。滅私。そういった意味で、私自身、非常に未熟である。かといって、ただ本を読み漁るだけだと、かえって自我が膨れ上がるだけのような気もする。これは実体験を元にする話だが、結局は人に会い、目の前の人に誠実であることしか方法はないのだ。
fさんの『真夜中乙女戦争』や、嶽本野ばらさんの『ロリヰタ』で「向かい合っている時、どんな背景があろうと、目の前のあなたのことしか考えていない」的なことを読んだことがあるが、その通り、そうあるべきなのだ。間違っても、目を合わせたつもりで、笑いかけたつもりで、気分を良くさせたつもりで過ごす不誠実を裁かれない謂れはない。
そうしてついでに自身の無学も白状しておく。私自身、一仕入れれば一話しがたる人間だ。
だから第三者による「アイツはこんだけ読んでるから」という評価は、いつだって過剰に膨満した自意識に穴を開けて萎縮させた。今までずっとそうだった。しかし上記より、何となく私の進むべき道が見えてきた気がする。そうして、これから怯えないだけの、笑わない相手を前に同じく笑わずいられる自分になりたいという目標を見出した。
さて、あとがきである。今更である。
私がここnoteで自らの作品を展開したのは、ひとえに「創作大賞」に応募するためである。小説の需要、カテゴリの需要。私の作品の需要が一体どこにあるのか分からないまま、「枠にとらわれない自由な応募」を募集している中に投げ込んだ所で、定型の文章はきっとどうにもならないだろう。
それでも誰かに見つけて欲しかった。自分のかけたものを、何かしらの形で認めて欲しかった。過剰な承認欲求。ただそれだけのためだった。
しかしこの欲求は、例えたくさんのフォローを得ようと、たくさんのスキを得ようと、きっと決して満たされることはない。慣れた脳みそが、昨日より明日、明日より明後日と欲張って、他者の、あるいは気まぐれによる気分に左右されるようになる。たった一つの承認がために目の前の人に辛く当たることの何が正しいのか。私の機嫌、笑みのために道化を気取って見せる人があったとして、私の脳みそはそんなことより誰かの承認を求めるのか。そう考えたら、私は耳だけでなく、本当は目まで失っていたのかもしれない。
さて、あとがきである。目が痛かろうと、ブルーライトが明日どう影響しようと、これは今書き残さなければいけないことであるため書き残す。
あと2日で作品が終わる。あとがきを最後に書くのは、個人的に言い訳じみて嫌なので、ここで挨拶を済ませておくというのが魂胆。
長かったですね。
たびたび顔を出して下さった方、ありがとう。あなたのおかげでまっすぐ歩けました。驚いたのは、過去を振り返った時、別の小説あるいは散文にも同じアイコンを見つけたこと。フォロー関係なく、何となく期待してたびたび足を運んで下さっていたとしたら、これ以上うれしいことはありません。信じてくれてありがとう。
「名もなき者達」が「名を得た」こと。本当はそれだけでよかったのです。
そうして、満足が内に切りにするのが良いかと思います。
私はこれから再び眠りに着きます。きっと浅い眠り。けれども起きてはいけないとも思うのです。起きて自我を放出するクセは、きっと目の前の人をないがしろにする。私は要領の良い人間ではないのです。
テニスをするに当たって不安に思った肩関節の痛みは「腱は切れたら縫えばいい」という医者のアドバイスをまっすぐ受けて、限界まで向き合おうと思います。驚くことに今のクラスの人達は、私にボールをぶつけても大して気に留めません。ともすれば「そこにいるお前が悪い」とまで言われかねません。それだけ個々自分のすべきことにまっすぐで、何とも惚れ惚れします。もちろん私自身、日々のケアありきで、できるだけ長く楽しめるようにするつもりです。
今後はそうして、私にとって大事な家族であり、テニスであり、人間関係に、もっともっと誠実に日々を過ごそうと思います。その上でバランスが取れるようになったら、その時にはまたボソボソと独り言を始めようと思います。
それでは。
今後もあなたの過ごす日々が、どうか実りあるものでありますように。
しばしのお別れです。いつかまたお会いできる日が来ることを祈念して。
速水詩穂
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