その娘、危険なワイフ【連載小説】(14/22)
【続、2016年12月25日(日)】
右のポケットがカチャ、と音を立てた。帰ったらまず紅葉に振動止めを返そうと思った。
〈はい、これあげる〉
復路。一段一段、段差を降りる。その間、自分は何も用意していなかったことを後ろめたく思い始める。本人は単純にそうしたいと思ったからそうしたことに違いない。けれど。
〈自分と君の気持ちのベクトルに大きな違いがあっちゃいけないと思って〉
それは明確な差異。
こんな機会がなくても、きっと寺岡さんはプレゼントを用意してくれていたし、思いつきもしなかった自分は、何がどう変わった所で同じ結果だった。
タコとパプリカときゅうりのグラス。
伊織さんは「目的ができた時、勝手にできるようになること」だから大丈夫だと言っていた。でも後のことはどうであれ、一手目、アリとナシの明確な差異を前に、どうしようもないというのもまた事実だった。
駐車場に戻って来ると、来た時にはなかった車が2台停まっていた。
迷った挙句、どちらかというと後ろめたさから後部座席に乗り込むと、すぐさま「詰めて」と寺岡さんが横に乗って来た。ドアを閉める。次の瞬間、塞がれた耳。
突然の事に目を白黒させていると「ごめん、ちょっと待ってね」と言って窓の外を見る。
あたしがその耳を塞いだ時は「耳の穴、その手前の軟骨を押さえ」た。でも寺岡さんは直接耳の中に指を突っ込んでいる。
聴覚を奪われると同時に、その一挙一動に心を奪われる。
呼吸が浅くなる。
これは恐怖とは違う、この人に対する、この人にだけ発生している、特別な思い。
「……場所選べよ」
呟くように悪態をつく。その手の力がようやく緩んだ。
「ごめん、びっくりしたね。もう大丈夫だから」
言ったその動きが止まる。
「え、あ、はい」
戻った聴覚。圧迫していたものがなくなると、その分だけ身体が緩むのを感じた。世間一般で言う「ホッとする」けれども、そのすぐ傍で未だ大きく脈打つもの。
弛緩と緊張。相反するものが絶妙な均衡で身動きを制限した。
弛緩と緊張。
ホッとしたのか何なのか。熱い頬。視界が潤む。
その、今離れたはずの手が再び耳を覆った。違う。耳を覆うようにして頭をつかまれる。「ごめん、」という声が聞こえた。次の瞬間、唇が重なる。
視覚とか聴覚とか嗅覚とか味覚とか、並べられても決して同率ではない。触覚の影響力の大きさは、そのまま一生命体の危機管理意識の高さだと思う。それは、自らの生命を脅かすものではないか、その可能性はないか、直接触れるものの中にこそ不純物が紛れていることを、遺伝子レベルで知っている。
それでも人は、寂しがり故に、怖いクセに恐る恐る手を伸ばす。大丈夫だと認めたものに触れていたがる。だから安心して触れられるものに執着する。うれしくて、自分だけのものにしたがる。それがいかに稀少なものか知っている程に、対象にとって自分も同じであるように。
謝る必要なんてないのに。
気を張らなくても大丈夫だと断ったばかりだから気にしたのかもしれない。
けど。ああなんか。
どうでもいいや。この人に触れていられれば。この人が触れたいと思っていれば。それだけでこの空間は完結できる。
何も考えられなくなる。だからこそ、そこに浮かぶ音の断片は紛れもない本音。
目を合わせたら終わりだと思っているのだろう。頭をつかんでいる手の力が緩まない。鼻先を合わせると、再び唇を重ねる。痛い。腰の辺りに鋭い痛みが走る。ズクン、とうめくは本能。身体の奥底で欲望が首をもたげる。
その大きな手に手を重ねると、ようやく真っ直ぐ目が合った。眉間に寄ったシワ。どう言い訳しようか考えているようだった。
「違う、これは」
言おうとしたその唇を塞ぐ。その首に腕を回す。
社会的な立場とか、責任とか。
アイツ一人くらい簡単に社会から抹消できる位ヤバい力を持っているとかいないとか。
うるさい。邪魔しないで。
どんな力を持とうと、その力を使う向きがある。この人はちゃんとベクトルを確認していた。
触るな。
この人に触るな。
それは腹の底、深い所から生まれた思い。あぶくのようにはじけ出す。
「大丈夫だから。間違ってない」
この人を追い詰めるには充分過ぎる力を持とうと、護るには非力。だったらせめてあなただけが負い目を感じることのないように。
「イチカ」
その目の表面が揺れた。泣きボクロ。邪魔だな、と思ったメガネを外す前に抱きすくめられる。とてもじゃない。あたしが敵う力ではなかった。
その首元に鼻先を押しつける。嗅いだことのない匂いがした。
この人だ、と思った。「あー」という声がする。
「帰したくねぇなぁ」
ズクン。
痛い。キュンキュンするとかドキドキするとか、そんな可愛らしい表現ではそぐわない。それは純粋な痛み。与えられた刺激が強すぎた時痛むのと全く同じ。それは受け入れられる容量をオーバーしていることを示すための、至極真っ当な反応。
思わず声を漏らすと「ごめんね」とその腕を緩めた。
違う。
声を張ってしまいそうになる。
誰だこの人にこれだけ腰が引ける思考を植え付けたのは。社会か。法治国家か。
「違うよ。傷つけたくなくて」
はっとする。危うく突き上げる想いが暴走する所だった。言いながら直すメガネ。
「本気で抱きしめたら、折れちゃう」
見つめるのは自分の両手。あるいはそうして傷つけてしまった過去があるのかもしれない。無責任に「大丈夫」とは言えなかった。代わりにその頭をなでる。
「ありがとう」
目が合った。もう一度言う。
「ありがとう。あなたはやさしい」
困ったように微笑む。その人もまた「ありがとう」と言った。
時刻は20時を回った所だった。
今から帰ればスクールに行く時と同じくらいの帰宅時間になる。
「お姉それ、すごいレアじゃん」
いいなぁ、と言ったのは後ろから覗き込んできた紅葉。お風呂上がりで、まだタオルドライの段階であるにも関わらず、その髪は既にふわふわし始めている。
「ん。ホントね」
照れ臭くてギュッと握りしめる。
「くまりんのデザイナーがテニス好き」というただそれだけの理由で、くまりんの振動止めのレパートリーは、とても一キャラクターのものとは思えない程豊富だった。レア合わせて全21種類。元々「アイドルを夢見るくま」という設定で、大きな目を強調する作り物がほとんどのため、完全に糸目で笑っているのは21種類目のレアものだけだった。
そうして、用途はあくまで振動止めであるにも関わらず、中身が分からないようにパッケージされていて、好きに選べないようになっている。欲しい人は出るまで買うか、あるいはネットで高額でやり取りしているものを落とすより他なかった。
元よりテニスをしなくても、生粋のくまりんファンはそのデザインの可愛さ故に手に入れようと走るため、その売り上げが異常値を叩き出し、結果テニス関係のコラボ依頼が後を立たないという。
〈この子かわいいなぁ。出たらいいなぁと思ってたら出た〉
そう言って、振動止めという機能以上にとんでもない価値を秘める、通称「パトロンゲットくまりん」ホイとくれた本人にだけは、この正式名称を知られてはいけないと思う。
繰り返すが、くまりんは愛らしいデザインを武器に、非情な搾取をし続けている魔性のキャラクターだ。女性は皆知っているが、恋人を喜ばせるため、知らずに沼にハマっている男性も少なくないという。そうしてそれを欲しがる人達は、それを手に入れることで自分自身にその価値を得られると思っているきらいがある。
そういう意味ではこれを最後にくまりんを卒業してもいいかもしれないと思った。くまりんが魔性として成り立つのは、そういったたくさんのパトロンがいるからだ。もう自分には必要ない気がした。
「これ、返す」
一番上の引き出しを引く。ポケットに入らずとも、ずっとそこにあった緑色の振動止め。紅葉は「今更」と言った。
「あげるよ。もう別の使ってるし」
「でも紅葉がもらったものだから」
そっか、と言うと受け取る。その目を細める。
「あのストローク、ほんとすごいよね。全然動かなくていいの。何とかゾーンってやつを、こっちが生み出してるみたいな感覚になる」
「違うの?」
「他の人と打ったら半面全域走らされた」
あははと笑う。まだ22時だけれど、眠たくなってきた。年末年始まで続く休み。いつ寝ようと自由だった。
布団に入ると、紅葉が思い出したように言った。
「あ、お姉『自分でパンツ洗ったら、下着入れのところに洗濯ネット入れておくから、そこに入れて欲しい』ってお母さんが言ってたよ。レースがピーってなっちゃうからって」
「おやすみー」と言うと、優秀な妹は電気を消して階段を降りて行った。
他意はないようだった。