その娘、危険なワイフ【連載小説】(19/22)



【続、2017年1月3日(火)】
「ごめんね、どうしても行きたい所があって」
 時刻は13時半。偶然にもそれは元旦、赤妻本家を後にした時間だった。
 キャラメル色のダウンジャケット。嬉しそうにアクセルを踏む寺岡さんの隣で「そうなんですか」と言いながら時限爆弾の重みを噛み締める。いや、噛み締めるというよりは食いしばる。ずっしりした重みに必死で耐えている感じだ。いっそのこと「こんなプレゼントいらないブラザー」と叫び出したくなる。
「……ね。聞いてる?」
「え、あ、はい」
 慌てて返事をする。話を全く聞いていなかった。寺岡さんは申し訳なさそうに「ごめんね、急に連れ出しちゃって」と言うと、そのまま前を向いた。違う。そうじゃない。そうじゃなくて。
「ど、どこに行くんですか?」
「少し遠出。豊川稲荷神社って知ってる?」
 知らない。豊川がどこかも。
「愛知。こっからだと一時間半弱かな」
 言いながら高速に乗る。上がるスピード。静かにざわめく。
 遠い。置いていかれたら完全に帰れない場所だ。
 寺岡さんはあははと笑うと「機嫌を損ねないように気をつけてね」と言った。
 そうしてわざわざ県をまたいでまで向かう神社というのはどんなものかと思ったら、それは想像以上に広く、にぎやかな所だった。
「狐がいる……!」
 参拝元の両脇にいる狐。敷地の奥に進む程にわんさか出てくる狐。全て石造で、ここの主は狐にとりつかれているとしか思えない。
「商売の神様を祀ってるんだよ」
 言いながら手を合わせる。振り返るとたくさんの人。それに
「出店! いっぱい!」
 ポーンと上がるテンション。
 唐揚げイカ焼きフライドポテト。
 じゃがバター焼きそば肉巻きおにぎり。
 炭水化物とタンパク質という分かりやすいエネルギー源、食欲を刺激する面々がこぞってこっちこっちと手招きしている。だが私は大人になった。目に入る片っ端から購入して、結果じゃがバターを食べられなかった苦い思い出を忘れてはいない、特に気をつけなければいけないのは肉巻き。ヤツはラストだ。
 首洗って待ってろよ、とロックオンして振り返ると「楽しそうだね」と、ちょっと引き気味に言われた。
「いや、思ったよりずっと反応が良かったと思って」
 花火より初詣より出店。これがいわゆる花より男子。
「お祭りみたいでついウキウキ……!」
「そうだね。お祭りみたいで楽しいもんね」
 ちょっと小馬鹿にされている感じが否めない。ぐう、と唇を噛み締めると「お願いがあるんだけど」と言われた。
 顔を上げる。
「あれ、買って来てくれない?」
 そう言って指差したのは桃色の袋をたくさんぶら下げた屋台。
 綿菓子だった。
「あれ?」
「そう。あれ」
 自分で行くのは恥ずかしいという。自分の分と合わせて二つ買って戻ると「ありがとう」と破顔した。
〈しょうがないって〉
 ああ、そっか。
 理解する。
「ふ、ふふ」
 しょうがないって言った後、必ず見られる顔。
 しょうがないって言いたいのは、自分に向けるその人の笑顔が見たいからだ。
 敷地内、何となく座れそうな場所に腰を下ろす。どうやったってベタベタになる綿菓子。あれもこれも買うより先にゆっくり食べたっていい。
「甘」
 桃色の袋を抱えて食べる。同じ顔をして笑う。
 いつだったか桃色と桃色に挟まれて、幸せ色をしていた紅葉。二つあれば幸せになれる。
「手洗うとこありますかね?」
「どっかにはある」
 最悪だ。もう何も触われない。
「たぶんこっち」
 人の多さが行く手を阻む。それでもこの大きな背中は見失う気がしない。のんびり行くしかない。そんな足取りも、それはそれで悪くないと思った。

 指を折って数えてみる。
「後3年」
「何が?」
 どや、と胸を張る。
「年女」
 子年だった。今年は酉年だから、来年犬で、その次猪でその次だ。そういえば
「寺岡さんは何年です?」
 ぐ、と空気が詰まった。瞬時に聞いてはいけないことを聞いたかと思って不安になる。
「……。……いや」
 とうとう白状しなければいけない時が来たと思って、と額に手を当てる。その後「引かないで」と前置きした上で、ごく小さな声で「うし」と言った。
 うし。パッと思ったのはねずみの次ということだ。でもそれだと私より年下になってしまう。ということは。
「ええと、」
 計算方法がわからない。直接聞いた方が早かった。
「今年何歳になるんですか?」
「さんじゅう、に」
 すごい頑張って搾り出してくれた。もう一度「引かないで」と言う。
「……分かってるんだよ。五十嵐が言ってた通り、君をロリと思ったことはないけど、自分がおっさんに違いないのは」
 両手で顔を覆っている。ちゃんとメガネの下から目を押さえている辺り、本気そうだった。
「おっさんじゃないよ。アキラはおっさんだけど、寺岡さんはおっさんじゃないよ」
「アキラの方が年下だよ」
「でも大丈夫。おっさんじゃない」
 説得も何もあったもんじゃない。ただゴリ押す。代わりに聞いた。
「ブラザーは?」
「同い年」
「じゃあうし?」
「いや、俺が早生まれだからアイツはねずみ」
「じゃあ杉田さんとかは」
「どうだか。あの辺はとら、うさぎ、たつ辺りでおさまりそうだけど……アキラは6つ下って言ってたから馬だな」
 そうして「アイツよく走るからなぁ」と言う。
〈『近いうちにアキラが死ぬ』〉
 思い出す。おっさんなアキラがヨボヨボしながら頑張ってたこと。
「アキラ頑張り過ぎちゃうからやさしくして欲しい」
「ん?」
「ブラザーに聞いた。アキラは頑張り屋さんだから、限界まで頑張っちゃうって」
 少しの間があった。
今度は「アキラは別の話だ」とは言わなかった。代わりに「そうだね」とだけ答える。

 同じ色の橙でも15時を境に空気の冷たさが変わる。温めるために活動していた太陽が、早くおうちに帰りたくて惰性で今日の残り時間を照らすようになる。
「あげます」
 そう言って押し付けるように渡したのは、封をしていない小さな紙袋。ひっくり返すことで、寺岡さんの手のひらにコロンと出てきたのは、小さな酉と丑のキーホルダー。ついている鈴がチリ、と鳴った。
「ごめんなさい、大したものじゃなくて」
 ロクなものじゃない。前に渡したのはくしゃくしゃのお守り。ただ、アイロンをかけたのか、それはいつの間にか神様が「しょうがないなぁ」と言ってくれそうなくらいには元通りになって、バックミラーの近くで揺れていた。
「かぼちゃが遊ぶくらいにしかならないかもですけど」
 最後にようやっと「誕生日、おめでとうございます」と言う。
 寺岡さんは黙っていた。失笑してくれた方がマシだったかもしれない。あまりのいたたまれなさに、今日帰ったら即行ブラザーに報告しようと思ったその時だった。目元だけ残して寺岡さんが笑った。
「ありがとう。うれしい」
 絶対思ってない。本当にそうならすぐ返事をしていたはずだ。長考の末。これは明確なダウトだった。
「本当だよ」
 はい、と差し出される左手。その右手はハンドルを握ったまま。
 疑念は拭えない。それでも渋々手を出すと、次の瞬間、信じられない力で手を掴まれた。
 弾かれたように顔を上げる。
 手をつなぐ、ではない。それは捕獲だった。局所的に発生しているエネルギー量なんて知らぬ体で、寺岡さんは車を走らせる。そうしてもう一度「うれしい」と言った。




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