沼(フォアサイド3カメ、3)【feat.メガネくん】
鳥肌が立つ。何あれ。
フォア同士のラリーしか見られなかったダブルス。だから「それ」は知らない。
それは超攻撃型のバックハンド。
ちょっと待って。いや、今までだって「バックハンドは打てるけど、打ち合える人はメガネくんぐらいしかいない」と思ってたよ。けど「あれ」は。
相手のフォアハンドが弾かれる。アウト。
「それ」は完全にフォアハンドのフィニッシュで使うような打球だった。ガシャらないそれを本番で使えるとなれば。
ゾッとする。
コーチとのラリー。たぶんもうメガネくんは誰と打っても打ち勝ってしまう。今更になって思い出したが、ビッグサーバーが唯一勝てない相手がメガネくんだった。バケモノのような雄々しさがないから一般人に見えていただけで。その様はさながらジョコビッチ。ジョコビッチがチチパスのバックハンドを打つ。いみわからん。何だそれ。何のチートだよ。
繰り返す。メガネくんはたぶん大人になってからテニスを始めていて、だから繊細なボールタッチ、身体の使い方はそこまで上手くない。ダブルスのポジショニングも危うい。けれど。
ガシャらない。それはストロークだけでなくボレーにも活きて、ショートストロークが武器の私にとって、本気のボレストが成立するのはメガネくんだけだった。
そんな「ミスをしない」という、どちらかというと防御に重きを置いていたかに思えた男が自ら打ちこむ。それは圧倒的キャッチャーがピッチャーを始めたことに他ならない。私はそれをずっと
待ってた。
本当は自分で在りたかった。ずっと、ずっと、この男が自らしゃべり出すのを聞きたかった。コートの反対側に立つのは、私がよかった。
とんでもないことが隣のコートで起きていようと、私は私でダブルスの真っ最中。相手前衛は「コイツどこ見てんだ」と思ったに違いない。
シングルスのスコアは聞かなくても分かる気がした。きっといつも通りたくさんラリーをして、結局全てのゲームをとって終わったのだろう。メニュー1つを丸々消し去った防衛記録を思い出す。
私自身、普段最後のゲームの出来で声をかけるか決めている。
もし上手くいっていなかったらしれっと帰った。けれど今日の感じなら調子良く終われたに違いない。「お疲れ様です」と声をかける。しかし予想に反して、返ってきたのは、目も合わさない、小さな「お疲れ様です」だった。ふ、と冷たい風が吹く。
きっと調子良かったから「あ、お疲れ様です」とか、いつものヘコヘコッとした感じで返事をしてくれて、それでついでに「すごくいいラリーしてましたね」とか言って、あわよくば「そっちも頑張ってたね」とか言ってくれたなら、もうそれだけでぼた餅回収してほこほこしながら帰路に着いたのに。
ああ、と思い当たる。
プレイもスコアも似たような状態で生じる温度差。その原因。
私はただ、メガネくんに「うまあ」って言って欲しかった。
上手って、ラケットで手を叩いて欲しかった。
だからそれを求めるあまりに上手くできないことへの焦りが募って自爆した。
私はただ、この人に認められたかった。
くだらない。何が絶対と相対だ。何が誰でもいいだ。そんなの、己の至らなさと向き合いたくないだけの、逃げるための言い訳だろう。おちょこみたいな容量のヤツが何をガタガタ言う。
くだらない。何だそれ。幼さの象徴か。だったらそれをメガネくんが許す訳がないだろう。前回逃げるようにして帰ったこと。メンタルの起伏が激しい相手に滅入るというのは、何もメガネくんも例外な訳じゃない。
全部自分都合だ。独りよがりだ。未熟さが目に余る。
帰り道見上げる。天井のライトが目を突いた。
一体どこから軌道修正したらいいんだろう。
分からない。距離は遠のくばかり。