その娘、危険なワイフ【連載小説】(16/22)
【続、2016年12月31日(土)】
少しずつ前に進む。もちろん寒いけれど、これだけ人が密集するとなると、いつしか凍てつくような感覚はなくなっていた。ちょうど列の真ん中辺りに来たのも関係しているかもしれない。相変わらず白い息を吐きながら「お家に帰りたい」と駄々をこね始めたブラザーに「じゃあ何で来たの」と聞くと、思いもよらない答えが返ってきた。
「は? 俺が言い出す訳ねぇだろ」
紅葉は〈ブラザーが行こーって〉と言った。〈ちびっこ寒い中連れ出して、風邪引いちゃいけないからって〉と。次の瞬間、
目の前から自分の吐く息が消えた。クリアになる視界。
違う。あれは。
ブラザー。周りから見てもほっこりする穏やかな二人。兄と妹のような距離感。そうだ。「紅葉にとってのブラザー」は。
「いいか。俺はお家でレッドいフォックスすすって、頑張って起きてようとしたけど結局寝ちまった可愛い娘達を運ぶのが仕事なんだよ。そんで血液型と星座と干支掛け合わせた今年の運勢ランキングで嫁さんとどっちが上か勝負してから寝んの。間違ってもこんな寒い中でリア充の子守りするためにいるんじゃねぇ」
ホント、俺何やってんだろ、と言うと、その両手をポケットに突っ込む。
微かに、微かに、浮かんでは消える息。だから視界はほとんどクリアなまま。
〈タバコ吸いながら『何やってんだろ』って思ってた〉
あの時、確かにそう言った。
〈友人に頼まれてね。口説きたい女の子がいるんだけど、二人だと警戒されるかもしれないから付き合って欲しいって〉
ブラザーのため息が浮かぶ。
〈打ってはいるんだけどなぁ〉
やっとのことで参拝を終えると、列から少し離れた所で巫女さんが忙しなく動き回っているのが見えた。取り扱う商品自体、何ら大きな変化のない売店。今年の干支グッズにお守り。いつも思うが、あの矢は一体どんな人が買うのだろう。それでもおみくじより先に何かを買うのは初めてだった。にっこり笑う巫女さんから品物を受け取ると、ブラザーが時計を見る。
「何時までっつった?」
「一時半」
さすがに門限というにしても結構な真夜中だけれど、元旦の親族の集まりのことを考えたら、あまり遅くはなれなかった。本当になむなむだけして帰る感じだ。紅葉と寺岡さんの姿は見当たらない。
ブラザーは「結構ギリだな」と言うと、上着のジッパーを下ろした。
「連絡する?」とバッグに手をかけると同時に、ぐいと手首を掴んで引き寄せられる。痛い。その胸にぶつかると、上着で覆われた。
「いや、こっちのが早い」
びっくりして見上げると、すぐさま声がした。
「何してるの?」
ブラザーが掴まれた肩に振り返る。
「そろそろ行くぜ。時間だ」
人の間を縫って、よろけるようにして紅葉が追いつく。
「……。……アラームだっつってんだろ。いい加減力加減覚えろやみっともねぇ」
みっともねぇ。
閃光の如く駆け抜ける。
〈感情的になること、かな〉
「分かってんのか? こんくらいのことでテメェを制御出来ねぇんならヤメロ。俺の目の届かない範囲で勝手にヤってくれ」
〈本気で抱きしめたら〉
ブラザーは、何かを知っている。
ブラザーは、寺岡さんを護るために警告した。でもそれはあたしに対してだけだったんだろうか。
思い出したのは、一瞬で戦意を喪失していたかもしれない、踊るようにして叩きつけたスマッシュ。攻め方なんていくらでもある中で、手加減こそしなくても相手に不快な思いをさせない程度にはかけていた調整。
〈だから俺がいるんだろ〉
〈その位ヤバい力持ってるヤツが〉
寺岡さんは手を下ろすと「悪い」とだけ言った。同時にあたしを捕まえていたブラザーの手も緩む。冷たい空気が胸まで届いた。
本気で抱きしめたら、折れちゃう。確かにあの時寺岡さんはそう言った。
階段を降りて、北に向かって歩くこと十分の所に駐車場はあった。一段一段が横に長い段差は、一歩ずつトントン降りられるものではない。同じように帰ろうとする人、これから参拝する人が行き交う。
「凍え死ぬ前に行くぜー」と少年漫画のテンションで石段を駆け降りる「太陽を模した大の大人」を、キャッキャ言いながら紅葉が追う。楽しそうだ。周りの迷惑なんてまるで考えちゃいない。あたしはその明るい塊を他人事として眺めると、もう一段階段を降りる。目の前にある大きな背中が同じ高さになった。でも。
目を落とす。違う。足元が同じ高さになっただけで、同じものは見ていない。背の高い寺岡さんが見ているのはあたしより三十センチ以上も上の世界だ。
無意識に歩くスピードは落ちていた。寺岡さんが一段下がった所で振り返る。段差の分だけ目線の高さは近いけれど、近いというには遠い距離だった。
それでも人波に押されて進むしかない。三四歩の距離は、大した時間も稼げず縮まる。その手が、固く握りしめたままのあたしの手を掴んだ。
「始めからこうしていればよかった」
言いながらそのまま自分のポケットに突っ込む。
ふわりと舞う息。視界が滲んだ。
「……手を開いて。それじゃあ繋げない」
固く握りしめたままのこぶし。大切だから落とさないようにしっかり握りしめていた。でもこれは、手のひらに跡が残るようなものじゃない。
大きな手が気づいた。小指の端からはみ出ている紐。
「開いて」
恐る恐る開いた手のひら。握りしめていたのはさっき買ったばかりのお守り。
あなたにいいことがありますように。
当たっても当たらなくても人の気分に作用するもの。あたしはただ、この人に笑って欲しかった。
キレイな四角だったはずのお守りは、握りしめた力の分だけ変形してしまっている。こんなんじゃ神様だって「やだよ」と言うに違いなかった。
寺岡さんは完全に足を止めて呆然としている。人の流れは変わらない。後ろを歩いていた人の舌打ちが聞こえた。
「まさか」
震える手のひら。寒いとは思わなかった。
「僕に?」
やっと頷くと、掴まれていた手首に力が加わった。
震える手のひら。震えていたのは寺岡さんの方だった。
くしゃくしゃになってしまったお守りを取ると、その右ポケットに入れる。ガシガシと頭をかく。「ごめん」と言うと再び歩き出す。
寺岡さんのポケットにはホッカイロが入っていた。しっかり繋がれた手。歩幅のいる階段をやっとのことで降り切る。北に向かって歩き始めると正面から風を受けた。
寺岡さんは一度も振り返らなかった。でももう寒いとは思わなかった。
駐車場に戻って来ると、さっきまでブラザーの車があったはずの所に別の車が停まっていた。
「こっち」
運転していたというのも、ブラザーが言い出しっぺだと思い込んだ理由の一つだけれど、考えてみれば寺岡さんは現地集合だった。足がない訳がなかった。
「ちょっと急ぐね」
紅葉と帰宅時間に差ができれば、その分だけ違和感になる。時刻は一時十五分。アクセルを踏むと同時に、足下の砂利が鳴った。
しかしながら、例えば紅葉が先に着いていたとして、その直後、別の車で帰ったあたしが、行きと違う送迎を何と言えばいいのか。あるいは時間的に差が出来て、これまた別に帰ったとして何と言えばいいのか。「紅葉が外でも待っていて、母が送迎の様子を見ていない」ケースを除いて、何らかの言い訳が必要になることは目に見えていた。中でも最悪なのは「車から降りる現場を目撃された上、時間差が出来ていた」ケースである。
そして今まさにその現場に相対していた。
助手席から降りて車を半周すると「ただいま」と言う。後ろめたさ、いたたまれなさから自然小さくなる声。母はあたしを見ていなかった、運転席のドアが開く。その音に振り返る。
「寺岡一嘉と言います」
寺岡さんはいつもみたいに人の良さそうな笑みを浮かべなかった。その声は澄んだ空気の中、まっすぐ届く。
母は何も答えない。少しの間。その口がおもむろに開いた。
「明日、朝イチでここに来なさい」
そうして踵を返す。背筋が冷えた。一体何のつもりでそんなこと言い出したか分からない。それに朝イチなんて漠然とした言い方されても困るに決まってる。
さっさと家に入ってしまった母に、どうしようと戸惑っていると「風邪を引くから早く入って」と言われた。寺岡さんは「おやすみ」とだけ言い残して帰って行った。
あれだけのやりとりで意思疎通は図れるものなのだろうか。大人同士の会話はよく分からないと思った。