その娘、危険なワイフ【連載小説】(1/22)
何でも思い通りになると思ったら大間違いです。あたしはあなたの人形じゃない。あなたが叶えられなかった理想を体現するために生きている訳じゃない。
成果に対する報酬を。
大人だってそうでしょう。だったら子供だからって搾取しないで。
成し遂げたことに相応しいだけの対価をきちんと支払って下さい。
あたしが求めるのはただ一つ、もう子供ではないと認めて下さい。
御家、という概念が分からなかった。ことあるごとに持ち出される「赤妻家の者として」
世間的に珍しい苗字であること以上に、そこに意味があるとは思えなかった。スマホに集約して、皆が皆身軽になっていく中で「歴史」とか「伝統」とか、時代遅れのものをいつまでも引きずって生きる。
どうでもいいが、あたしにとっての実害は門限だった。
去年一度、友人宅で話が盛り上がって帰宅が遅れた時、顔を真っ赤にした母に、上がりまちから放たれた言葉を今でも覚えている。
「こんな遅くまで、節操のない」
節操。
冷たい何かが胸に刺さる。
正しく生きてきたつもりだった。期待には応えてきたつもりだった。それでも、ただ一度の遅刻でそんな言われようをするとは、夢にまで思わなかった。あたしが大きくなる程に小さくなっていく人。結局この人にとって信じられるのは、赤妻家の者としての目に見えた成果のみ。母にとって、ハナっからあたしは信用するに値しない存在だったのだ。
【 2015年8月9日(日)】
固く握りしめていた手を開くと、汗ばんだ手のひらの中で、同じく汗ばんだプラスチックの塊がぬらりと光った。
大切だから落とさないようにしっかり握りしめていた。手のひらに跡が残るくらい、しっかりと。
本来ここにあるはずのないもの。本当は自分のものではないものを。
頭の芯に残る声。気温に対して冷たい身体。
どこで何を間違えたんだろう。
ぼんやりそう思った時、頭上から声がした。
【2015年2月4日(水)】
始まりは、コーチの気まぐれに行われた「百回ラリー」某テニススクールにて、普段己のやりたいこととのみ向き合う集団が、やいのやいの言いながら目標を達成させるための道筋を作り上げていく。
分かりやすくフォローが必要な面々はいい。自然に周りが助けに入るから。安定感がない訳じゃないけど、ラリーが得意な訳でもなくて、常日頃ほとんどのやり取りを妹に任せている自分にとって、そのイベントは嫌な角度から自分を追い込んできた。
自分もラリーに自信がない。
周りの空気に押されて、言い出せない。勝手に話が進んでいく。
どうしよう。誰もあたしが失敗するなんて思ってない。
失敗しちゃいけない。それは「一番」を課された時の、あの奥歯がめり込む感覚に似ていた。
めり込む。肩が強張る。分かる。少ししたら頭痛が始まる。
失敗しちゃいけない。失敗しちゃいけない。失敗しちゃいけない。
ラリーが続く程に膨れ上がっていく「負債」
めり込む奥歯。強張る肩。
身体が固い。動かない。
呼吸が浅くなる。どうしよう。五十嵐さんがとった。紅葉がのびのび打ってる。鈴汝さんが返せば、次に矢面に立つのはあたしだ。
どうしようあたしで失敗したら。きっとすごくシラける。今まで繋げてきたものを、あたしなんかがダメにしたら。
どうしよう。コートが狭い。あんなにスペースがあるのに、あんな広い空間に落とせないなんて、このクラスではあり得ない。とんでもない恥晒しだ。
こわい。
急速に膨れ上がっていく不安。
ボールが飛んでくる。ラケットを振り出す。何とか当たったボールが落ちたのはサービスライン手前。ヒュッとのどが鳴った。
ブラザーは前に出ると、スピンを掛けて返した。ベースラインでのやり取りに戻った。それでも心臓がまだバクバク言っている。
のど元過ぎても次はすぐ来る。
過ぎて行かない緊張感。上手く返せない罪悪感。今度こそ上手にやらなければというプレッシャー。
めり込む奥歯。強張る肩。
全身が石のようだ。柔らかいはずの関節が機能しない。
こわいこわいこわいこわい。
助けて、と思ったその時だった。後ろから声がした。
「ボールを、上から見下ろす」
振り返る。
「それで、打ちたい方向に向かってまっすぐ振り切る」
見上げる。その黒縁メガネの奥の目は、コート上を行き来するボールを見つめたまま。
「その角度から打ち出されたボールは、ちゃんと必要なだけの回転を含んでコートに収まる」
相変わらず追い詰められた小動物並みの速さで脈打つ心臓。それでも、ただ漠然とした不安の中で掴まれるものを見つける。「藁にもすがる」というのは「ただ手のひらに握りしめる何かがあるだけで安心感を覚える」ということに他ならなかった。
不安に脈打っていた心臓が、やるべきことを見据える。
その目がようやくこっちを向いた。
「失敗したら僕のせいだ。だから思いっきり振って大丈夫。たぶん君は、バックの方が安定する」
鈴汝サンの打ったボールをアキラが返す。センターマークを踏みながらも、順サイドでのやり取りを、回り込んで逆クロスに変える。
〈ボールを、上から見下ろす〉
それは、フォアに比べて、引き込みや身体の向きが重要になるバックハンドの正確な打点。
〈それで、打ちたい方向に向かってまっすぐ振り切る〉
それは完全に横を向いた体勢から、前へ飛ばそうとして早く身体を開き過ぎないようにするためのコツ。あくまで身体はギリギリまで横を向いたまま。
当てただけのボールでも飛ぶ。でもバウンド後伸びない。力のないボールには改めて力を加える必要があって、それはただでさえ「弱メンタル」なブラザーへの負担になる。依存しないだけの、一人一人独立したボールを返し続けることが、結果、その後続くやり取りを助ける。
〈失敗したら僕のせいだ。だから〉
思いっきり振る。
きちんと必要なだけの回転を含んだボールは、サービスラインとベースラインの間に収まると、ブラザーの打点できっちり捉えられた。
〈それ、ちょうだい〉
え、と言った時の顔が忘れられない。妹は戸惑いながら自分のラケットを見下ろした。
それは「百本ラリー」の翌週のことだった。要求したのは、そのガットの根本にくっついている振動止め。キャラクターものじゃない。おしゃれなデザインのものでもない。それはただメーカーのロゴが入っただけのもの。
「え、でもコレ」
さっさと渡そうとしないそのラケットを奪い取ると、それを外す。簡単に外れた振動止めは、手のひらを転がると、そのまま足元に落ちた。同時に黒い塊が動く。
「やっぱりダメ!」
強いクセ毛の黒髪。紅葉は足元に落ちたそれを拾うと、背中を丸めた。
防御の体勢。
古く、日本人は大切な何かを守ろうとする時この体勢をとり、欧米人は大切な何かを背に戦闘態勢をとるという。
目の前に現れた丸めた背中。それはどこまでも非建設的で、どん詰まりの、ただ相手の容赦を待つだけの、非力の象徴。
望み通りにしてやろうじゃないの。
見慣れた体勢に、あたしは一度目の手を上げた。
十八歳は丸々子供ではない。けれども、例えば自分で稼ぎを得るようになった同級生がいたとしても、全てに決定権がある訳ではない。結局はまだ子供だ。
嫌になる。子供だから、子供扱いされるとカッとなる。ただ与えられたものをにっこり笑って受け取れたらどんなによかっただろう。紅葉みたいに「ありがとう」と。それでお互い幸せだ。
足りないものが分からない。近づき方が分からない。歪んだ愛情表現しかできない。
握りしめたプラスチックの塊、ぬらりと光った緑色の振動止めは、あの人が紅葉に渡したもの。その日、紅葉のつけていたものが壊れてしまって、二つセットで買ったものの片方をあげたのだ。
「かわいいものじゃないけど、欲しい機能は備わってるから」
応急処置、と言って。
あの人は色違いの青色のものをつけていた。
「それ、ちょうだい」と言ったあの時、紅葉は「お姉の好きなくまりんのやつあげるから」と言って引き出しにしまってあったものを出した。あの人は「紅葉ちゃんだけだと嫌だよね。これあげる」とこっそり携帯している飴をくれた。
ただ与えられたものをにっこり笑って受け取れたらどんなによかっただろう。紅葉みたいに「ありがとう」と。それでお互い幸せなのに。
あたしは二人の差し出したものを受け取らなかった。あたしが欲しいのは、それではなかった。
【2015年3月11日(水)】
むくれ顔のあたしをブラザーは笑った。
「オイ思春期。かわいいお顔が台無しだぜ」
軽いトーン。湯気の見えそうな筋肉。気温十度を下回る中で、真夏と変わらない格好をしている男。挟むインターバル。都度全力で動いている分、活性化する身体。良くなる血流はその頬を上気させる。よく動く表情筋。男は快活という単語を体現していた。
「かわいくなんかないもん」
返す言葉がどうしてもささくれる。
事実だった。
こんな自分が嫌だ。欲しいものがあっても、手の伸ばし方が分からない。傷つきたくなくて近づけない。でも気づいて欲しくて、遠くの方から石を投げてみせる。そんな自分が。
「ブラザーのバカ」
他の誰よりあの人に近い男。
あるいは強いクセ毛の黒髪。目の前で丸めた背中。
あたしは、そんな「自分よりあの人の近くにいる人」に当たることでしか、自分を保てない。ただ与えられたものをにっこり笑って受け取れたらどんなによかっただろう。紅葉みたいに「ありがとう」と。どうしてあの時、それができなかったんだろう。
ズボンの左ポケットにはボールを入れる。普段使わない右ポケットには、本当は自分のものではない緑色の振動止めが入っている。あの時からずっと。
〈失敗したら僕のせいだ。だから思いっきり振って大丈夫〉
打球が安定する。寄る辺を得たボールは、精神的な脆さどうこうの一切を受け付けず、真っ直ぐ飛ぶ。必要なだけの回転を含んで、相手に誠意を示すには充分な力を持って。
バックハンドは両手打ち。鈴汝さんみたいにフォアバック両手打ちじゃない以上、片手の方が融通は利いても、力のやり取りに入ればバックハンドの方が確かに安定した。
寺岡さんがアキラと打ってる。
身体の向きを変えるのが早い。リズムの変わらないテイクバック。打ち出してきちんと戻る。その様子は入ったかどうかなんて気にも留めていないようだった。するべきことをきちんとしている。だから入らない方がおかしいのであって、打ち出した瞬間に次に打つ時のことを考えている。
寺岡さんがアキラと打ってる。
アキラは相手に合わせるのが上手い。上手い相手だと特に同調する力が高まる気がする。単純に自分もそうなりたいと思うからかもしれない。似たような、連動するような動き。
「上手いよな、アイツ」
切れないラリー。自然長くなる待ち時間。
今コートに入っているのは四人。鈴汝さん、紅葉、アキラ、寺岡さん。
アイツ、が誰を指しているのか分からないが、心臓は外にも聞こえているんじゃないかと思う程の大きさで脈打ち始めた。
「ホント、集中力の塊っつーか、絶対俺にはマネできねぇわ」
ばくばくばくばく。
「ふーん」
たぶんブラザーは鈴汝さんや紅葉を「アイツ」とは呼ばない。
「お前もそう思うか?」
「うん」
分からないまま打つ相槌。心臓の音がバレないように、右のポケットに突っ込んだままの手のひらをぎゅっと握りしめる。ブラザーは「そっか」と言うと、ようやく終わった鈴汝さん、紅葉サイドに顔を向ける。そうしてコートの方を向いたまま、そっと置いていくようにして言った。
「寺岡はやめとけ」と。