傷つかず愛せると思うなよ、1【feat.中上級】
怖いと感じた。
正面東の空、20時の月は大きく丸く、とてもこれから高度を上げていくものだと思えない。毛穴が見えそうなほど解像度の高いそれは、じいとこちらを正面から見返す。まるで値踏みされているかのようだ。
「いいけど」
i野コーチが言った。「クラスを変えるってこと?」と続ける声は少しだけ不安げで、旦那の振替を使う旨を伝えるが、その表情は変わらなかった。
コーチは何となく気づいている。だから口にすれば好きな練習メニューを交えてくれるくらい私に甘い。それでも何となく気づいている。きっとそれは経験則。
私がこのクラスを離れようとしていることを。
何も今に始まったことじゃない。女ダブ対男ダブで0ゲームで勝ってしまった時。組む相手誰しもが怯えるのを見た時。サーブも、デュースからの一本勝負でリターンを請け負うのも当たり前になった時。急激に自分が冷めていくのを感じた。
気温に心拍数が合わない。このままでは凍えてしまう、と身の危険を感じて、再び中上級の見学に出向いた。今回は前回とは別の時間枠。以前のコーチに声をかけられた時、あの時言えなかったことがするりと口をついで出た。
「退屈、なんだと思います」
やさしさは、ぬるい。とてもこの寒さを凌げるようなものじゃない。欲したのは熱。例えるなら生命の危機に瀕して初めて稼働するような。ああ、確か幽遊白書で戸愚呂が言っていたな。
〈お前もしかしてまだ自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね〉
そう。足りないのは危機感。
目の前で繰り広げられるラリー。通路と隔てるネットを挟んで手前、見学と言いながらテニスシューズを履いてきたのは、いつもの格好で来たのは、いつ何時でも動けるようにしておくため。私にとって、いつだって準備運動より手前からこの競技は始まっていた。だからその人は言った。「今の時間帯のコーチに許可をもらっておいで」と。
いつもガンガン押し上げる人だ。いいじゃん上行きなよ、と無責任レベルで言う人だ。だから中上級は、それだけ格式が高いということに違いなかった。
行くと決めた中上級を担当しているコーチは初見ではない。初めて打ったのは平日振替の中級にて。
金髪ツーブロ七三のコーチは、アスリートな筋肉のつけ方をしていて、ジムにいれば女性会員が爆増しそうなタイプだった。身長か肉付きの問題か、最低限テニスという走る競技に支障が出ない程度の質量を持ち合わせながら、印象は「でか」だった。
この男、容赦ない。
これまでいろんなコーチを見てきた。けれど皆が皆技術的な、テクニックでみせるタイプだった。もちろん年相応のテニスをするのが普通。いや、だからこそ、
私より2つ年下だと聞くコーチは、コーチという立場どうこうではなく、何よりまず己が楽しむためのテニスをする。いわゆる「修行」だ。「俺は俺が楽しいと思うことをするから、個々に楽しめ」そんなバチボコストローカー。
まず通常のストローク。フォア、バック、フラット、トップスピン、スライス。様々な球種を見せてもらう代わりに輪郭をまさぐられる。はっきり値踏みされていると分かった。
ただ打つだけか。緩急に対応できるか。どの程度打ってくるか。どんなテニスを望むか。何を嫌がるか。3球打てば分かる。ある程度パスしたのだろう。その結果が、前衛に構えた私を的にした本気のボレスト。すぐ側を掠めたボール。頬に血の筋ができたかと思った。
かっ開く。
いやまてよちょっとせめてラリーでなんでボレストになったとたんオンになるわけ。
七三で「ななコ」とする。ななコは基本フラットだ。フラットの特性は速さ。とんでもないスピードの打球がふっ飛んでくる。信じられない。重さ以上に速さに怯む。
つま先を横に向ける。引き込む。インパクトの瞬間に握る。ちきしょう。当てるのに精一杯で、思うように返らない。緩急。それは対応できる。でも緩急の急が急すぎる。
基本ボレーは一歩が届くように軽く構える。腰を落とすのはストローカー。それでも正面飛んでくる球の速さに、全身が強張る。受け止めるために腰を落とさざるを得なくなる。これはまず実践では役に立たない。一歩が出ない前衛は簡単に地蔵と化す。
「もう一本」
ちきしょうッ。
その足を踏み込む。その腰の落とし方が。
怖い。
刮目せよ。今は何より自身の身の安全がため。あの男は私めがけて本気で打ち込んでくる。受け止めた打球はこっちのネットにかかった。
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