その娘、危険なワイフ【連載小説】(20/22)



【続、2017年1月3日(火)】
 チリ、チリ、と鳴る音がする。
 小さな鈴。二つ交互に音を立てる。
「どうぞ」
 いつぞやと同じようにそう言うと、自身はソファの下に入り込んでしまったかぼちゃに声をかける。その指の先で揺れる鈴。酉と丑がゆらゆらしている。
「大丈夫だってば。ほら、おいで」
 一向に変わらない体勢。一度や二度会っただけで解けるような警戒心なら、始めから備わっていない。かぼちゃの行動は正しかった。
 見回す。南向きの部屋は、西側にテレビ、足の低いテーブルを挟んで東側にソファがある。もう一つあるドアは寝室に続いているのだろう。ダークブラウンを基調とした室内。ほとんどの家具の重心が低く、大方立膝で動くだけで事足りてしまいそうだ。台所、換気扇の下に無造作に置かれたタバコ以外は、どれもきちんとして見える。
「大丈夫だってば。ほら、おいで」
 寺岡さんはまだ交渉中だ。ダウンジャケットさえ脱いでいない。もういいよと声をかけようとした時、ぬう、とその身体が起き上がった。ため息一つ「しょうがないなぁ」
 くるりと振り返る。膝を立ててカーペットに後ろ手をつくと、座ったまま首を傾げる。
「おいで」

 居間のドアの近く、ギリカーペットの届く範囲にいた私は、突然のことにうまく反応できない。
 否。突然のことではない。ここにいる以上。
「……かぼちゃが相手してくれないから」
「違うよ。大丈夫だって分かれば勝手に出てくる」
「ねえ」と姿の見えない相手に呼びかける。返事はない。
 時刻は17時。日が沈む。影の多い室内より、外の方がずっと明るい。
 私の動く気配がないのが分かると、寺岡さんはよいしょ、と立ち上がってカーテンを閉めた。照明用のリモコンがテーブルの上にある。
 伸ばす手が当たった。
 顔を上げる。
 丁度だった。カーテンを閉めて振り返るのと、まっすぐ進んだ私がリモコンを取ろうとしたのが、丁度、ピタリと重なった。
 息ができなくなる。
 動けない。触れている所を通じて、自分の心臓の音が聞こえてしまう気がした。だから本当は動きたいのに動けない。
 目が、合ってしまった。
 寺岡さんはニコリともしない。触れていない方の手で上着のジッパーを下ろす。
 動けない。目を取られたまま。
 は、と微かにもれた息。次の瞬間手をとられる。さっき助手席にいた時と同じ、つなぐ、ではなく、完全なる捕獲の用途。
 寺岡さんはやさしい。やさしい、けど、
 それは、静寂を装ったむせかえるような、
 過度な熱を孕んだ眼差し。寺岡さんではない寺岡さん。
「……。……別に今に始まったことじゃない」
 近い。まるで直に音の振動を感じるかのよう。
 微かに香るはタバコのにおい。百害あって一利なし。追い込む正しさと心のバランス。
「『かぼちゃが遊ぶくらいにしか』って聞いた時、君も一緒に遊んでくれるんだと思った」
 膝が戦慄く。立っているのがやっとだ。その口が開く。
「……。……前に『自分と君の気持ちのベクトルに大きな違いがあっちゃいけない』って言ったのを覚えてる?」
 一度だけ、く、と頷く。
 それは低く静かな声だった。
「これが最後の警告だ。逃げるなら今しかない」
 浅くなる呼吸。息苦しいのは、けれども決してそのせいだけじゃなく、
目が離せない。
 警告だと口にしたその人の目があまりに真剣で、同時にあまりに無防備に見えたから。当たり前じゃない当たり前。義務と責任。この人を傷つけるかもしれない何か。本来どうやったって敵わない、望めば全て力づくで手に入れることのできるこの人を、たった一言で殺してしまうかもしれない。護れるとしたら自分だけだ。そう思ったらもうダメだった。
 恐る恐る踏み出す一歩。呼吸が乱れた。
 分かってもらえると思うけど、本当、ちょっともう立ってられなくて。
 触れる。強い力で背中を支えられた。懐に抱え込まれる。
 つかまれていた手が外れる。
「カズハ」
 ズン、と尾てい骨に響く。完全に人一人分の重みを抱き止めながら、寺岡さんが呼んだ。限りなく痛みに近い感覚が身体の中心を貫いて、視界が滲む。
 声にならない。
 重いからとか、迷惑になるから、とかじゃない。
 手を伸ばすとその首にしがみつく。この人の匂いを直に嗅いで、やっと呼吸ができる気がした。

「……何?」
 声にならない。
 熱いものが詰まってしまって、音に起こせない。
 のどがひゅう、と鳴った。
「カズハ」
 早く。早く出て来て。
 眼前に浮かぶは、走り去るテールランプ。
 今度こそ。今度こそ。
 この人が帰っちゃう前に。
 声にならない、じゃない。
 するんだよ。掠れても裏返っても。
 この人ならきっと受け取ってくれる。
 しがみついた首。その耳元で口にする。初めて。
 それはあの時から、緑色の振動止めを握りしめていた時から、ずっとずっと支えられてきた思い。ずっとずっと懐であたためていた思い。

 あなたが、好き。

 引き止めて。帰さないように。
 お願いだから、ここにいて。
 イチカ、と続けた声が飲み込まれた。
 背筋に落雷。腰が砕ける。

 噛み付くようにされるキスの合間、その場にしゃがみ込んでしまいそうな身体を支えて抱き上げられた。高い。完全な他力。でも、怖くはなかった。
 ドアノブにその足をかける。最後に開けられたドア。その後、ベッドに下ろすと同時に上着を脱がされる。
「……邪魔だな」
 カタ、とメガネを置く音がした。
 今何時になるのか、もう分からない。





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