その娘、危険なワイフ【連載小説】(11/22)



【2016年12月24日(土)】 
 気づけば年の瀬だった。東京での生活も、じき2年になる。始めこそ戸惑った都心の地理やシステム、人混みも、慣れてしまえばちゃんと多数の中の一になれた。
 ひかりからこだま。その後東海道線に乗り換えると、徐々に視界を緑が占める割合が多くなって来た。窓に頭をつける。思ったよりひんやりした。
 間違えようのない一本道。多数の中の一ではなく、ただの一になれる。実家。自らが生命体として機能し始めた、枝葉より深い所に刷り込まれた土壌。
 帰る。それは子供ながら童心に帰る感覚に似ていた。物理的に近づく程に肩の力は抜け、ありのままの自分に戻っていく。
 ガタタン。
 途中停車した駅で、換気を含めた多少の人の入れ替えを挟むと、再び動き出す。
 こうして見ると、常日頃自分がどれだけ背伸びしているか思い知る。
 ありのままの自分に戻っていく。童心に帰る。それは「ただいま」と言って「おかえり」と受け入れられるような。それは一人前のフリをして、中身はまだ甘えたのままということに違いない。けれど本当はそんな甘えたのまま、何も知らない顔をしてその人の前に立ちたかった。

 初めて行こうかどうしようか迷った。それは「本当は決まってるクセに迷っているフリをしている」訳ではなく、ブラザーや紅葉がいないからという訳でもなく、ただ純粋に。
 どうしよう。
〈知らないと思うから先に教えておくけど〉
 あたしが「ただいま」を言いたいのは、やさしい方の寺岡さんだ。
〈失敗したら僕のせいだ〉
 目をつむる。冷たい窓。額のひんやりとした感覚だけがリアルになる。
〈紅葉ちゃんが『お姉は赤が好き』って言ってたから〉
〈いや、ここはいいよこれで〉
 いつだって膝を曲げるようにして目線を合わせてくれていた。「ね」と言った。
〈伸びしろすごいなぁ〉
〈バレちゃったか〉
 そう言って笑った。
 胸がきゅう、と鳴く。
 当たり前ではないのだと気づく。あたしが見てきたもの、知らずに得てきたもの。
〈何も攻めるのは前衛だけの役割じゃない〉
 寄る辺。一つでも拠り所があれば「前に出られる」ようになる。
 受け取ったものを加工して、花を咲かせる。
〈ありがとう〉
 影響すること。その人の一部を形成すること。この人がいるとうれしいと思った。この人といると幸せな気持ちになると思った。のに。そうしてお互いただ心地良い関係でいられればいいのにと思った。ありがとうって言い合って、楽しいねって分かち合って。本当はそれだけでいいのに。
〈兄弟で肩抱き合ったりするんだ〉
〈待つことはできる。でもそれは待たずに済む時が来ることを想定した話だ〉
 どうしてそんなことを言うのだろう。
 
 スマホを見ると時刻は13時20分だった。ギリギリだったら「間に合わないから」と言えたのに。あるいは「悩んでるヒマなんてない」と走り出せたのに。中途半端に時間があるのが一番厄介だ。何の言い訳もできなくなる。
〈逃げるなら今の内だということだけは〉
 自分が降りる駅に着いた。さっきより多くの人の降車がある。
 多数の中の一ではなく、ただの一。慣れない階段でつまづくと、後ろを歩いている人に嫌な顔をされた。
 ただの一。ウソだ。一人前にも満たないあたしは、ただの一にもなれない。

 白い息が浮かんでは消える。気温3度の極寒。
 時に、白梅と月を並べる時「月光により白梅が見えなくなる」と表現した時代と「照らされ際立つ美しさ」を表現した時代がある。本体は何も変わっていないのに、見る側の意識一つで白が黒に反転するのは、何も特別なことじゃない。
「絶対来ると思った」
 久しぶりに見るドヤ顔。相変わらず気温とマッチしない軽装のブラザーは、世間一般にはクリスマスイブと呼ばれる日であるにも関わらず現れた。まだ小学生にも満たない双子の娘を持つパパとしては、こんな所にいる場合ではないと思うのだが。
「今年最後だからな」
 年内最終日。年末年始の休講期間はスケジュール上最も長く、3週間のインターバルを挟む。そのため、バカと名のつく程この競技を慕っている者は、しばしばイレギュラーな出方を試みる。例えば普段出ている時間帯の他、最終日、人によっては年始初日にも顔を出したり。そんなバカの名はブラザーにこそ良く似合った。
 どこかホッとする一方、常時落ち着かなくなる。結果だけ見ればプラマイゼロ。むしろマイナス。
「サンタ役はやらなくていいのか?」
 落ち着かないのは「まるで気を遣うことのなかったブラザーとのやりとりに、気を遣わざるを得なくなった」ただそれだけのせいじゃない。寺岡さんは何ら変わらない調子でそう言うが、すぐ「あれ、あれ赤オニだっけ? 豆まき?」と、衣装の色しか共通項のない行事を並べた。
「サンタは寝てる時に現れるもんだ」
「やっぱり違った」
 そうして人の良さそうな笑みを浮かべると、こっちを向く。
「久しぶり。君も最終日は外せないタイプ?」
 やさしい。いつもの寺岡さんだ。でもその後に聞こえないはずの声が続く。
 それとも、僕に会いに来たの?

 今日のコマが終わり、帰り支度をしている時、スマホが光っているのに気づいた。無料通話アプリのアイコンをタップすると、表示された名前は「いがらしやまと」
「あ?」と声に出したのはブラザー。「ん?」と声に出したのは寺岡さん。いずれも自分のスマホを見ている。あたしのスマホに表示されているふきだしは一つ。初めてのやりとりで、向こうから一方的に送りつけられているのだ。多い余白。
〈どうせヒマだろ? クリスマスパーリーやるから明日昼俺ん家集合〉
 同じような格好で手元を見ていたため、何となく似たような文面を見ているのではないかと思ったら、やっぱりそうだった。
「アイツこそヒマ過ぎだろ」
 ブラザーが悪態をつく傍ら、受信音がした。
〈『いがらしやまとがカズをグループに招待しました』〉
〈『いがらしやまとがタイヨウをグループに招待しました』〉
 立て続けに表示されていく文言。タイヨウ、というのはたぶんブラザーのことだろう。一体どこから連絡先を入手したかは知れない。
 そんな個人情報問題以上の問題が、今目の前で起こっていた。
〈『いがらしやまとがイチをグループに招待しました』〉

【2016年12月25日(日)】
「うわははは優秀。さすが見込んだだけのことはある」
 何を見込まれたのか定かではないが、あの後ある程度推測できそうな名前が招待され続けた結果、実際こうして集まったのは6人。
「え、本当に良かったんですか?」
「大丈夫よ。みんなでワイワイするのが好きなのあのバカ」
 鈴汝さんの問いかけに、伊織さんがやわらかく答える。ちなみにグループ名は『テニスバカ』だった。
「いいのか? お前は家族で過ごすんじゃないのか?」
「夏にもこうして集まったって聞いたんで。時間見て帰ります」
 寺岡さんの問いかけに、杉田さんが答える。意外にも集まりには顔を出したいタイプらしい。
 そこに加えて主催者とあたし。五十嵐さんは慣れた様子で手を動かしながら、居間の入り口で声を上げた。
「ろっくごじゅうし! まぁ一人9枚ならギリ革命なくはないでしょ!」
 皆が席に着くより先にトランプを配り出す男は、根っからの貴族のようだ。
「あ、テキトーに」
 それにしても雑過ぎる。どこでもいいから座れとのこと。反射的に、というか本能的に杉田さんの座る位置を確認すると、後続に押されるようにして奥に座ったのを見て、手前の席に腰を下ろす。前回と同じ、一辺二人が座れるテーブル。今回はちゃんとこたつ布団がかかっており、本来の魅力を遺憾なく発揮していた。
 向かって右側に五十嵐さんと伊織さんが、あたしの右隣には鈴汝さんが座った。その後寺岡さんが向かって左側に座り、何となく落ち着く。
 落ち着く。良かった。隣に鈴汝さんが来てくれて。
「アキラは?」
「年末は長い休みがとれるから国に帰るんだと。はい、自分のとってー」
「小出さんは?」
「あそこはちっこいのがいるからな。そっち優先だろ」
 言いながら杉田さんを見る。鋭い眼光。本人は至って真剣にカードを見ていた。負けず嫌いというか、真面目というか、一つのことしか見えなくなる集中力はさすがだと思った。
「紅葉ちゃんは?」
「あ、今日の夜帰って来ます」
 紅葉もグループには参加していた。本当は来たかったに違いない。その時だった。
「だって。残念だったなぁ杉田」
 意図の読めない反応に五十嵐さんの顔を見る。
「コイツ、何気にお気に入りなの。姉ちゃん来るなら絶対来ると思ったのにな」
 自分の手札での戦い方を考えていた杉田さんは、ひと段落したのだろう。カードを見つめたまま応える。
「だから何だ」
 思わず息を呑む。変わることのない表情。
 強過ぎる。大富豪最強のカードが2やジョーカーだとしても、杉田さんが持つのはそういう類の強さではなかった。誤解されようと、己の発言一つで相手を傷つける可能性があるのなら、その状況ごと甘んじて受け入れる。枝葉がどう揺れようとその価値は変わらない。「本物」という言葉のよく似合う人だった。
 つまらなそうに「フン」と鼻を鳴らすと、五十嵐さんはカードをかざした。
「じゃあ始めるぜ。ダイヤの3だーれ?」




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